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第21回 失敗のシミュレーション
●箱根用水と友野与右衛門●
文/撮影 泉秀樹



 芦ノ湖は箱根火山のカルデラにできた湖岸線20キロメートル、面積7万平方キロメートルの巨大な火口原湖である。いまでは湖畔の至るところに観光施設をそなえて富士を望む一大温泉観光地だが、かつては箱根権現(箱根神社)に深いかかわりを持つ神聖な「権現御手洗之池【みたらしのいけ】」だった。
 大庭源之丞はこの神聖な芦ノ湖の水をなんとかして湖尻(うみじり・こじり=海抜845メートル)峠の真下を掘り抜いて西の駿河・駿東郡(御厨領)へ引くことはできないか、と考えた。
 源之丞は駿河・駿東郡深良村南掘(静岡県裾野市深良)に住む同村の名主である。

 深良村の西北には富士、西に愛鷹【あしたか】山、東に箱根の山々が連なっている。南に平野がひろがっているがここを流れる黄瀬川の水はとぼしく、あたり一帯が慢性的な旱魃【かんばつ】に悩まされていた。
 そこで源之丞は芦ノ湖の水をひいて小田原領と沼津代官が管理する水量のとぼしい黄瀬川流域の農業生産を拡充し、収穫を飛躍的に増やしたいと考えた。水の足りない田の水を安定確保し、新田を開発し、畑地を水田に変えることは米経済下の農民の最大の願望だった。米は最も換金性が高かったからである。
 ときは徳川幕府の政権も安定期に入った四代将軍・家綱のころで治水開発、新田開墾が各国で盛んに行われていた。
 源之丞は江戸・浅草駒形横町に住む町人・友野与右衛門に先の案を相談した。
 友野家は信州(長野県)佐久の出で先祖の友一が甲州流(土木技術)をもって真田信幸に仕えて釜無川の堤防をつくったといわれ、その後、駿府(静岡市)に移住して両替商を営み、与右衛門はここで新田開発をやった経験もあった。
 与右衛門に関する詳しい史料がないが、土木工事に必要な測量技術と工事人をたくみに働かせ、企業の経営能力のある人物だったといわれ、日本鉱山史に必ず登場する振矩師【ふりかねし】(測量士)静野与右衛門と同一人物ではないかという説もある。現代風にいえば源之丞は与右衛門が銀行とゼネコンを合体させたような企業の経営者であることに着目したのだ。

 源之丞の話に乗った与右衛門は箱根権現の別当・快長と「二百石之所」(伊豆国・沢地村=年貢米90石)を永代寄進する契約を結んで芦ノ湖の水の使用許可をとりつけて協力を求めた。
 社殿改修の資金と衆生救済のために快長は与右衛門をひきつれて老中、若年寄をはじめ役人を紹介し、用水路掘削の許可をとるための説得にあたった。
 「快長僧上自ら願書を持参奉呈の手続きを成す」といい許可手続きに「与右衛門之困苦難一と方【ひとかた】ならず」(『駿河国駿東郡疎水工事咄控』)という。
 老中・稲葉正則は芦ノ湖や駿東郡を領有する小田原領主であったが、それでも許可をとるのに3年かかり、寛文6年(1666)4月13日にようやく与右衛門ら元締・請負人4人が連署して「請負手形」を提出するところまでこぎつけた。  与右衛門は宮崎市兵衛(相模・坂間)、松村洋心(江戸・日本橋)らに出資をたのんだが2人は途中で手を引いて代わって長浜半兵衛(江戸・四谷)その他の協力を得た。
 こうした与右衛門をはじめとする元締たちは芦ノ湖の水を灌漑に利用する者からは水掛料(水田の面積、収穫の石数によって取立てる水の使用料)をとって出資者に償還(配当)しようと考えていた。いわゆる「町人請負」である。
 といっても幕府から6千両を借り入れ与右衛門たちが残りの金を出資して7年間で元金と利益をあげる契約であり、小田原藩(稲葉家)と沼津代官(幕府)と箱根権現(寺社奉行)の管理下に置かれた第三セクター的な共同プロジェクトであった。

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 用水路掘り抜きの工事は1年の予定であった。
 会津(福島県)保科【ほしな】正之が藩財政を賭して寛文5年(1664)に起工して1年後に貫通させた「滝沢山の隧道」(全長570間=1026メートル)が猪苗代湖の水を会津盆地に引き入れたことが頭にあったのかもしれないが、この箱根は難工事だった。
 ツルハシとノミで軟らかい凝炭岩を掘り進むと固い安山岩にぶつかる。それを迂回して掘り進むことをくりかえした。坑道のなかは篠竹を束ねて火を灯した篠竹灯で照らし、途中何か所か山頂まで空気孔を垂直に掘り抜きながら進んだ。土砂が崩壊したり水が出たりなどの事故で死んだ者もたくさんいたことだろう。
 が、とにかく4年の歳月と延べ人数83万余、7千3百両の金をかけて箱根の外輪山に全長738間(約1280メートル)の隧道が掘り抜かれた。
 平均勾配250分の1、取水口(湖水口)と出水口(深良口)の標高差9.8メートルで理想的な取水隧道が掘り抜かれた。それも双方から掘り進んで地中で穴をつないだが、その落差はわずか1メートルであった。技術の誤りによる落差ではなく計算して落差をつくって、いったん水を壁にぶつけて水勢を削いだともいわれるパーフェクトな工事であった。
 水路が竣工通水したのは寛文10年(1670)4月25日。新暦だと5月12日にあたり初夏の明るい光を浴びて新緑があざやかに映える季節だった。

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 完成した箱根用水の灌漑面積は29か村、約530ヘクタールに及び農民の生産性はあがりはしたものの、しかし、ことは計算通りに運ばなかった。たしかに水田は増えはしたが8千石という見込みが実際の増収は半分の4千石程度でしかなかった。
 ということは、与右衛門たちの投資した金は契約期間の7年ではとても回収できないということであり、借金を返済できないということだった。もともと小田原藩と沼津代官も渋い計算をしていたがそれをはるかに下回る収益しかあげられなかったのだ。
 与右衛門ら元締たちは破産状態になってわずかな金を横領した料で処刑されたというが、その後の行方も死に方もわからない。
 五代将軍・綱吉は貞享4年(1687)に町人請負新田の停止、幕府年貢総決済の命令を出している。幕府の方針は国役普請や諸大名に経費を負担させる手伝普請に転換してゆく過渡期にあった。町人が中間で利益を抜く請負は士農工商の身分制度下では不都合だったから闇に葬られたのかもしれない。
 与右衛門たちは正徳元年(1711)になってから土地の農民によって建立された芦ノ湖水神社に箱根用水の恩人として祀られている。そこは与右衛門の屋敷跡(静岡県駿東郡長泉町上土狩【かみとがり】惣ヶ原)である。
 官民の共同プロジェクトとして起業するときには利益の計算しかしない。失敗したときの損害を厳密正確に算出して誰がどう負担するかまで徹底的に数字を洗い出しておくべきだろう。そうしないと失敗の責任を一般庶民の税で補うことになってしまう。それとも失敗したときのシミュレーションにまで人間の想像力は及ばないものなのだろうか。

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いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『日本名産事典』(日本図書センター)など多数。
ご意見・ご感想などは
hidequii@yahoo.co.jpまで。



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