《戦経Interview》
数学者 藤原正彦氏に聞く
聞き手 本誌発行人 飯塚真玄
歴史・伝統・文化に根ざした
“美しい情緒”が日本を救う



戦後日本は、清濁入り乱れる水流に翻弄されながらも急速な発展を遂げてきた。その底流に常に流れていたのが「理性」「論理」といった欧米的価値観だ。しかしいま、泥沼不況、環境破壊、犯罪、家庭や学校の荒廃などが次々と表面化し、その基盤は激しく揺らいでいる。そんな現状を冷徹に見つめる数学者・藤原正彦氏は「我が国特有の伝統・文化を尊重しない限り、日本の未来はない」と断じる。

■国や民族への誇りが本当の「創造性」を産み出す

――実は、私が藤原さんのご主張や考え方に触れるきっかけを与えて下さったのが、富士通の山本卓眞名誉会長でした。3月の初めにお会いしたとき、「こんなすばらしい方がいるよ」と講演録のコピーをいただいたのです。一読して感じ入りました。
藤原:  そうですか。ありがとうございます。 藤原氏

――その後は『古風堂々数学者』をはじめ数々のご著書を読ませていただきました。一貫して日本の教育の憂うべき現状を喝破しておられ、爽快感さえ感じますね。 なかでも日本独自の歴史、伝統、文化、などをもっと尊重し、教育現場に取り入れるべき、というご主張には共感させられます。
藤原: 人間は自国に対する誇りや愛情がないと、本当に独創的な仕事はできません。天才と呼ばれる人は必ず、家族や郷土への誇りはもちろん、「国や民族を愛する心」をしっかりと持っています。たとえば世界的に著名な数学者である岡潔先生(奈良女子大学教授、1978年没)は、若いときに留学したフランスを「山の上から谷底見れば、瓜や茄子の花盛り」と表現されました。つまり、ヨーロッパ文化なんて日本文化に比べれば底が浅いものだと断じたのです。これは裏を返せば、日本文化への誇りの表明です。
――岡先生は、留学を終えた後、一年間は丸々俳諧の勉強に没頭されたそうですね。
藤原: 留学によって岡先生が思い定めたのは、まず自らの研究分野を「多変数函数論」にすること。そして、その研究にとりかかる前に、松尾芭蕉などの俳句や連歌という日本独自の芸術を徹底的に調べ、理解することでした。そして、その後、十数年かかって、当時世界の三大難問と呼ばれていた問題を全部ひとりで解いてしまった。もし数学にノーベル賞があれば、三つか四つ受賞していたに違いないすごい業績です。
――つまり、俳句という日本を代表する情緒文化が、岡先生のその後の数学の研究の基礎になったと。
藤原: 本当に独創的な発想を産み出すのは、論理性や合理性ではなく、美や調和を感じる「情緒」です。岡先生は、自然と人間が心を通わせる、俳句という世界に例を見ない文学によって、日本の情緒を深く取り入れようとしたのです。
――すごい話ですね。
藤原: でもそれ以前に、日本文化への誇りがなかったら、欧米の人たちと対等に「斬り合う」ことはできないんですよ。私は、イギリスのケンブリッジ大学で一年間教えた経験がありますが、ケンブリッジといえば戦後だけでノーベル賞受賞者が40名。数学のノーベル賞といわれるフィールズ賞受賞者もうようよいます。そういう連中がヨーロッパの伝統と知性で圧倒してくる。そんな局面で私が拠り所にしたのは、やはり故郷の美しい自然や日本民族・文化のすばらしさでした。挫けそうになっても、そういうプライドを思い起こして翌日はまた命がけで頑張る…。「人類愛」とか「地球市民」などではとてもやってられません(笑)。
――分かります。当社もドイツの会社と30年間提携しているのですが、その交渉の時々で、自らを励ますバックグラウンドとなったのはやはり日本人としてのプライドでした。
 
■子供を傷つけることを恐れて教育なんかできない

藤原: 最近の日本人はみんな自信を失っています。それに輪をかけて経済学者やエコノミストは、日本人が自信をなくすようなことを連呼している。ほとんど他国の謀略かと思えるほどですね。
 自信がないと何をやってもダメです。私は教え子に「実力はなくても仕方がないが、自信だけは失うな」と口をすっぱくして言っています。自信さえあれば、あとは努力でなんとかなります。
――その自信の源が日本人としての誇りだと。
藤原: そうです。ところが、いまの日本の風潮は社会がダメだ、文化がダメだ、伝統がダメだと、政治家や官僚、学者までが叫び続けている。これが何もかもうまくいかない最大の原因です。  戦後GHQは、教育基本法を施行する際に、日本人が二度と米国に刃向かわないように日本の文化、伝統、誇りといったものを根こそぎにしました。それが第一の目的だったわけです。ところが、現在の状況を見て当事者のアメリカでさえ、あまりにうまくいきすぎて驚いているのではないでしょうか。私の教え子にも愛国心を持っている者など一人もいません。自国への誇りどころか、日本は恥ずかしい国だという教育をされてきたわけですから…。
――同じ敗戦国のドイツは戦後、教育基本法を変えませんでした。そのために何人かドイツ人が殺されたという話も聞いています。
藤原: 拒否したんです。様々な方面からの強烈な圧力にも屈しなかった。それに比べて日本は無抵抗。アメリカの差し出したものを「ははー」と押し頂き、誇りのかけらもありませんでした。それがいまの日本にボディーブローのように効いてきているのです。しかも、教育基本法施行以前に旧制中学・高校で教育を受けた「頼りになる世代」はみんな引退してしまった。このままでは日本は大変なことになります。
――そんな現状を打破するためには、やはり教育改革ですか。
藤原: 戦後50年かけてここまで落ちてきたわけだから、立て直すには同じくらいの時間が必要かもしれません。が、それでもやらなければならない。我々の孫の世代に期待をつなぐためです。そのためには、いまの文部科学省の方向性を一変させる必要があります。  たとえば、文部科学省は「基礎をきめ細かく」教えることが大事だという。でもそこには大事なものがひとつ抜け落ちています。「厳しく」という言葉です。しかし、教育審議会などの場で私が「厳しさ」を強調すると、必ず「厳しくすると生徒が傷つく」という反論がわっと出てきます。でも、傷つくことを恐れたら、躾はできないし、ましてや教育なんてできるわけがない。
 
■国語は知的活動の基礎パソコン教育は意味がない

藤原:  それからもちろんカリキュラムの変更も大問題ですね。今年の四月から、「ゆとり教育」の名のもと小学校の国語と算数の内容は3割減になりました。とんでもないことです。
――とくに、国語教育の拙劣さを嘆いておられますね。
藤原: 国語はすべての知的活動の基礎です。人間は言語によって思考するわけだから、国語力と思考能力はほぼイコールの関係にあります。「超むかつく」とか「キレる」とか言っている若い連中は、思考能力もその程度だということ。いくらインターネットに精通しても人間はかしこくなりません。インターネットは本の目次を見ているようなものですからね。やはり目で活字を追うことが必要です。それさえやっていれば、多少勉強ができなくても大丈夫。あとは野山を駆け回って遊んでいればいいんです。
――ところで藤原さんは、ご著書のなかで、国語の時間が大嫌いだったと書かれています。
藤原: それは授業が面白くなかったからですよ。「太郎さんと花子さんが云々云々」というような稚拙な文章を読まされたのでは、好きになりようがありません。その意味で国語の授業は、量だけではなく、質の向上も必要ですね。最初から一流の詩人や小説家のものをルビをふってでも読ませるべきです。正確な意味なんて分からなくていい。知的活動の基礎を作ることが目的なんですから。  そうして基礎ができれば、中学、高校、大学と進んでもおのずと本に手が伸びるようになります。優れた文学や史実に触れることで、日本の伝統や文化を感じ取り、正義感や、勇気、誠実、慈愛あるいは名誉、恥、愛国心なども理解していくのです。
――同感です。しかし、昨今の時代の流れでは、いまおっしゃったことは世の中になかなか理解されにくいでしょう。
藤原: 「何を時代錯誤なことを…」とよく言われますね。個性の尊重は近代思想の根底ですと。しかし、自由とか平等とか個性などは、小学校教育には必要ありません。その意味では、いま日本を滅ぼそうとしている最大の犯人は国民だと思いますよ。たとえば、国が4月から小学校に英語教育を取り入れますが、これに賛成する国民は86%。パソコン導入に関してもほぼ同じです。でも知的活動の基礎ができていないのに、英語やパソコンを教えても付け焼き刃にすぎない。そこから優秀な国際人やコンピュータ技術者は絶対に生まれません。その上、起業家精神や株式・債券投資などを小学生に教えるという無茶苦茶なことまでやり始めようとしている。
――一方で国語教育はどんどん減らされていく…。
藤原: 小学校の国語の時間は大正時代が14時間。戦前が12時間。そして現在が5、6時間です。これが日本人全体を思考停止に追い込み、現在の最悪の状況を創り出したといっても過言ではないでしょう。
 
■日本の歴史・文化を学ぶことが国際人になるための条件

――最近、若者の歴史観の欠如を痛切に感じています。私の経験からいま思いつくだけでも、司馬遼太郎の『坂の上の雲』も知らないし、軍隊が撤退する際の最後尾の部隊を意味する「殿軍」という言葉もまったく通じません。我々にとって身近な歴史だったものが、ほとんど伝わっていないというか…。
藤原: いま高校では、世界史が必修で日本史は必修ではありません。国際化という意味合いなのでしょうが、信じられないですね。本末転倒としかいいようがありません。我々が外国人と面と向かったとき、熱心に質問されるのは日本の歴史や文化のことなのにね。
 たとえば私がケンブリッジで教えていたころ、パーティーの席で「夏目漱石の『こころ』の中の先生の死と三島由紀夫の自殺とは関係があるのか」「縄文式土器と弥生式土器はどう違う?」「元寇は一度目と二度目は何が違ったのか」などといった質問をしょっちゅう投げかけられました。それに答えられないと「つまらないやつ」というレッテルを貼られ次には呼んでもらえなくなる。もし企業人がこれらの質問に答えられなければ、当然商談が進まなくなります。
 つまり、日本の文化や歴史をきちんと学んでおくことが、国際人として大事なことなのです。我々日本人にシェークスピアのことを聞く外国人はいないんですから。
――なるほど、そう考えると、戦後日本の歴史教育には相当問題がありますね。戦後というよりも、ここ10年というべきかもしれませんが。
藤原: 終始一貫「屈辱の歴史観」だったですからね。日本の歴史や文化が軽視されて、最も顕著に出てくるマイナス面は「大局観の欠如」だと思います。個人でも企業でも国でも、ローカルで短期的な問題には、論理的思考や合理精神で対処できます。ところが、大局観や長期的視野ということになると、どうしても歴史や文化といったバックグラウンドが必要になってくる。つまり地に足のついた愛国精神ですね。これが決定的に欠けてしまったのが戦後で、この10年はとくにひどい。10年前といえば戦前の世代がちょうど引退した時期に重なっており、これもあながち偶然ではありません。
 国は、そのような大局観を持った本当の意味のエリートが最低でも1000人くらいはいないともたない。いまのエリートと呼ばれる人たちはみんな偏差値エリート。卓越した判断力で国民を引っ張り、いざとなれば国家に命を投げ出してもいい…というのが本当のエリートです。そんな真のエリートを早く作らないと日本を立て直すことはできないと思います。エリートなき民主主義は衆愚政治につながり、結果として国を滅ぼします。
――しかし現状の日本では、そのようなエリートをつくることは、国民の嫉妬心が許しませんね。
藤原: おっしゃる通りで困ったものです。悪しき平等主義がはびこった結果ですね。もちろん基本的人権は平等ですが、一方で人間の能力差は認めていかなければならない。能力的に「すごい人たち」を国家の責任で徹底的に鍛えていくのです。たとえばイギリスでは、将来を担う人材は12歳くらいからパブリックスクールに入れて、学問とスポーツで徹底的に鍛えます。そしてことあるごとに「おまえたちは命を懸けてイギリス国民をリードするんだ」とたたき込まれる。
 翻って日本の政治家や官僚といった偏差値エリートたちは、そのような愛国心とは無縁な教育を受けてきたので、国家のことなど何にも考えてない。立身出世や利害得失に汲々となるばかりです。最近の外務省の不祥事なんて典型的な例でしょう。
――企業や金融機関が外資によって相当に荒らされている現状もその延長線上にあるわけですね。
藤原: 金融の問題は深刻ですね。完全に蹂躙されています。私は実は暗号についても半分専門家なのですが、金融業界の情報はほとんど読まれていて、ヘッジファンドの思うがままにやられています。日本の国民総資産は1400兆円といわれていますが、もしかしたらすでにかなりやられている可能性がある。そういう本質はまったく隠され、構造改革などもズレた方向に走っています。本質を直視する力ばかりか意欲さえないのは、日本のトップ層が偏差値エリートで、愛国心を持ち厳しく鍛えられた真のエリートではないからです。 
――恐ろしい話ですね。
藤原: アメリカも1980年代前半くらいまでは、日本に好意的な部分もありました。でもその後日本の一人勝ちの状況になり、やや趣が変わってきた。そして90年にソ連が潰れてからは経済的には完全に日本の敵国に転じました。
――日本を味方にしておく必要がなくなった。
藤原: そうなんです。にもかかわらず、日本はアメリカ追随一辺倒。向こうは敵視しているわけだから、それではいいようにやられてしまうのは当然です。それを防ぐには、対抗できる人材をつくらなければならない。つまり、教育を抜本的に変えて真のエリートを作っていくしかないのです。
 
■先人の知恵である「かたち」を子供に押しつける重要性

――話を戻しましょう(笑)。小誌の読者にも身につまされる話だと思いますが、子供を教育する際の親の役割についてはどうお考えでしょう。
藤原: 母親を、その場その場に応じて臨機応変に叱る役割だとすると、父親には、それらをまとめ上げて、大きな価値観を子供に「押しつける」役割を担うことが求められます。たとえば弱いものを殴ったり、大勢で一人をやっつけたり、武器を持ってけんかをしたり、男が女を殴ったりすることが「卑怯」であることを徹底して教えなければなりません。これはもう理屈ではなくて「だめだからだめなんだ」の世界です。
――ご著書でも再三書かれている「かたち」ですね。
藤原: そうです。場当たり的に理性や論理で考えていると、人は必ず自己正当化に走ります。判断基準がないからです。人間にとって最も大事なものの多くは論理的には説明できない。それら説明できないことを、日本では昔から「かたち」として、家庭や学校で子供たちに叩き込んできた。いわば、社会を円滑に回すために先人が長年かかって積み上げてきた「知恵」ですね。先ほど述べた「卑怯」を厭う精神もそうです。いくら品性下劣な嫌なやつでも大勢でやっつけてはいけない…というのは、たとえ論理的に説明できなくても正しい価値観なんです。それから「忍耐」や「我慢」などもそう。たとえば子供が長時間テレビを見ている場合、親が潮時だと思ったら黙って消す。泣いても喚いてもうけつけない。
――しかし、最近はそれだけの度胸を持った父親は少ないのでは。
藤原: 小学生を叱りつけることくらいできるでしょう。中学生になっていきなりやったら殴られてしまいますけど(笑)。  そうしてテレビを制限したら、しつこいようですがその余った時間で本を読ませる。本を読んだり、自然に親しんだり、故郷を思ったり、人を愛したりしなければ情緒力は生まれてこない。たとえばものを考えるとき、AからB、C…Zまでは論理でつなぐとしても、最初のAを発想したり選び取ったりするのは情緒の力なのです。
――仏教に「発心正しからざれば万行空し」という言葉があります。最初の願いが正しくなければ、後に続く努力はすべてムダになりますよという教えなのですが、それに通じるものがありますね。
藤原: そうなんです。ちょっと話がずれるかもしれませんが、天才といわれる数学者には、朝、研究を始める前に念仏を上げたり、お祈りをしたりという人が多いですね。冒頭話に出た岡先生もそうだし、インドの天才数学者のラマヌジャンもそうです。それをすることで、これから立ち向かう数学の諸問題が透明に見えてくるんだそうです。私も毎朝念仏を上げれば、もっと大きな仕事ができるのかもしれません(笑)。
――数学者の真理を追究するプロセスと、宗教的な「悟り」への道とは近いのかもしれませんね。
 
■「もののあはれ」は世界に冠たる日本の美徳

――さて、藤原さんの主張される「愛国心」についてですが、これを戦前回帰の危ない思想ととらえる向きもありますが…。
藤原: 大いなる誤解ですね。愛国心が戦争につながるという考え方は戦後の誤った教育の産物です。世界中どこの国でも愛国教育は重要視されています。やってないのは日本だけ。祖国は自分のルーツですから、祖国を愛することは家族を愛し故郷を愛するのと同じことです。
 戦前は、一部勢力がそれを歪曲・悪用したのですが、その背景には昭和初期あたりから、永らく日本人の美徳であった「武士道精神」が廃れてきた状況がありました。武士道精神とは「誠実」「勇気」「忍耐」「慈愛」「惻穏」あるいは「卑怯を憎む心」などですが、これらの精神が軍部の台頭とともに低下したのです。当時の軍部はいまの官僚と同様に、立身出世だけを考えていたからアジアの国々という「弱者」をいじめた。
――つまり「かたち」の喪失が太平洋戦争を引き起こした。
藤原: その通りです。愛国心が戦争の原因ではありません。本当の愛国心とは、自国を心底愛すこと。故郷の山や川や谷や風や空気や石ころまでを愛して、涙を流す。そんな人は、他国の人たちの同じような思いもよく理解できる。その情緒が戦争を防ぐのです。理性や論理や合理精神はもちろん重要ですが、これらがきちんと働けば戦争が防げるというのは幻想です。現にいまだに、世界中で戦争が起こり続けてるじゃないですか。
 日本人は古来、繊細で美しい情緒を育んできました。「もののあはれ」という感覚もそうです。ワシントンのポトマック川の畔にはすばらしい桜並木がありますが、アメリカ人はそれを見ても「オー・ビューティフル」で終わり。ところが我々日本人は、一週間で散ってしまう桜を人間の命のはかなさに投影して「もののあはれ」を感じます。これは日本人が世界に誇るべき、美しい情緒で、それこそが、他国の人々を思いやる心につながるのです。この情緒をしっかり育てていけば、他国を侵略するとか、ミサイルのボタンを押すとかできるわけがない。そんな美しい情緒が存在する日本という国をいとおしいと思う心が祖国愛なのです。
――ナショナリスト(nationaist:国家主義者)とパトリオット(patriot:愛国者)の違いはどう理解すべきでしょう。
藤原: 自分の国さえ良ければいいという人がナショナリスト。自国を心底愛する人がペイトリオットと解釈すべきでしょう。アメリカ人に「あなたはペイトリオットか?」と聞くと烈火のごとく怒る。「当たり前だ」と。
――日本人はよく「私はナショナリストだ」と外国人に堂々と宣言してしまって失敗するようです。
藤原:(笑)それから祖国愛の持つもう一つの意味は、ローカリズムの重要性です。近年、イスラムに対する姿勢などでアングロサクソンの傲慢さが目立っていますが、グローバリズムの名のもとに自分たちの価値観を押しつけるのはよくない。私は、いまの行きすぎたグローバリズムをローカリズムで修正してくことが、21世紀の人類が繁栄していく上で、最大の命題だと思っています。チューリップは美しい花ですが、世界中の花が全部チューリップだったら面白くも何ともないでしょう。各国・民族の伝統文化は頑張って守っていくべきだし、他国はそれを尊重しなければならない。それぞれの文化には、日本と同じように長年にわたって育まれてきた独特の美しさや情緒があるわけですからね。世界中の人々が、そんな伝統・文化をベースに情緒を育んでいくことが、世界平和への近道なのだと思います。


〈プロフィール〉

ふじわら・まさひこ 1943(昭和18)年、作家の新田次郎、藤原てい氏の次男として旧満州・新京に生まれる。東京大学大学院を卒業後、コロラド大学助教授などを経て、現在お茶の水女子大学理学部教授。『サムライ数学者』の異称をもち、近年は文筆家・思想家としての評価も高い。『古風堂々数学者』(講談社)、『遙かなるケンブリッジ』(新潮社)など著書多数。