《戦経Interview》
一橋大学大学院教授
野中郁次郎氏に聞く
聞き手 本誌発行人飯塚真玄
「知識創造」の
スパイラルをまわせ

 



多くの日本企業が閉塞状況を抜け出せずにもがき苦しんでいるなか、経営の根幹として新たに注目されているのが「知」の活用。個々の企業人の知を鍛錬し、組織として知識創造を促し、それを経営革新に結びつけていくには何が必要なのか――。経営学の立場から組織の知識創造理論を構築し、「知識経営」の世界的研究者として知られる一橋大学大学院教授野中郁次郎氏に聞いた。

■暗黙知と形式知の相互作用で知は増殖する

――野中先生は1991年に、マネジメントを「知識」の視点からとらえた論文“The Knowledge-Creating Company”をアメリカの「ハーバード・ビジネス・レビュー」誌に発表し、経営学の新たなパラダイムを提唱されました。そして95年には同名の英語版書籍(邦訳は『知識創造企業』梅本勝博訳、東洋経済新報社)を出版、その組織的知識創造の理論が世界的な評価を獲得し、全米出版協会の「ベストブック・オブ・ザ・イヤー」を受賞されています。

野中: 「ハーバード・ビジネス・レビュー」に発表して4年後に、竹内弘高さん(一橋大学大学院教授)と共著で本にしました。あれで一挙に世界に広まったんですね。

――ええ。あれ以降、無形の知識こそが価値の源泉であるとする「知識経営」の考え方が世界中に広まりました。『知識創造企業』は80年代の日本企業の成功要因をナレッジ、知識という視点から解明し、知識創造の一般理論として抽象化されたわけですが、理論の核心は「人間の知は暗黙知と形式知の社会的相互作用を通じて創造・拡大される」という部分に集約されているように思えます。それにしても、欧米の学者はびっくりしたでしょうね。

野中氏野中: そう思いますよ。知はすべて言語化できるというのが欧米人の考え方で、「暗黙知」という概念がそもそも彼らには希薄だったわけですから。しかし「形式知」という言語で表現された知は氷山の一角で、背後には膨大な「非言語的な知」すなわち暗黙知があるわけですね。
 暗黙知というのは「個人的で主観的」な知で、個人が経験の反復から体得した直観や熟練です。企業にはこのような言葉では表せない膨大な暗黙知が眠っています。一方の形式知は言語という分析的な知を媒介にして獲得できる「社会的で客観的」な知。アナログな暗黙知に対し、形式知はデジタルな知です。われわれは、すべての知がこの二つの知に還元できると言い切ったわけです。

――そして、組織的な知識創造はこの二つの知の相互作用によって行われると主張されました。

野中: 暗黙知はいくら集積しても個人の域を出ませんが、これを共有可能な形式知に絶えず変換すれば組織の知が豊かになり、そこに働く個人の知の創造も刺激されます。つまり知のスパイラル運動が起こるわけです。暗黙知と形式知の相互作用で知がダイナミックに増殖していくわけですね。したがってどっちの知が重要かではなく、両者がせめぎあわないといけない。それが知識創造の基本です。
 マネジメントの本質は「知をつくり続ける」ことにあります。しかし、私も当初は企業や人間を情報処理のマシンととらえ、組織は情報処理に限界のある人間をマネジメントするためにある、とするマネジメントセオリーに心服していました。「情報から知へ」「情報処理から知識創造へ」と変わっていったきっかけは、ホンダやキャノンといった日本企業のイノベーションの現場での体験でした。
 例えばQCサークルにしても、日々蓄積した経験知を現場で徹底的に喋って言語化し、マニュアル化することで全社運動にする。こんなことは世界中で日本だけしかやらなかった。あるいは新製品開発運動。開発、製造、営業の担当者がチームで走り回り、共通の体験をしながら議論し、次々とコンセプトマニュアルに書いていく。これも日本企業の得意技でした。いってみれば現場レベルの知識創造ですね。現場の人間がこれをやって世界に冠たる日本製品をつくりあげたわけです。

――知識創造理論は80年代の日本企業をモデルに構築されました。しかし、その後はむしろ欧米の企業でナレッジマネジメントが進んでいるようですが…。

野中: ナレッジワーカーという言葉が今は普通に使われていますが、私は『知識創造企業』で、現場での話もさることながら「直接部門」としてのホワイトカラーの知識創造が重要だと訴えました。それは、まさにイノベーションのプロセスなんですよ。率直にいってアメリカはそれでぶっ飛んだ。こんなことをやられては敵わんと。そこで日本企業に学んで暗黙知を形式知化し、あるいは自社に内在するベストプラクティスの共有化をはかる。しかもそこにITを組み込んで“ナレッジマネジメント”と称して本格的に取り組んだわけですね。これがアメリカ復活の一つの源泉になったことは確かです。しかしITで知識を効率的に活用するというのは、知識経営のほんの一部にすぎません。

■知は個人の「思い」を普遍化・正当化するプロセス

――なるほど。さて、今回新たに『知識創造の方法論』を上梓されました。どんなきっかけで執筆されたのでしょうか。

野中: 知識創造理論を世界に発信して以来、企業トップや現場のリーダーから、個々の企業人が知を生み出すには具体的にどう取り組めばいいのかという相談を頻繁に受けるようになりました。確かに、これから求められる知は従来のようなアイデア発想法ではない。これまでにない製品・技術・サービスのコンセプトやシステムなどを創造する知であり、しかも自らビジョンや理念を明らかにし、それを問い直し、さらに新しいコンセプトや政策を構築するための知の方法です。経営の質がますます問われる知識社会では、企業人にとって具体的な知の方法論を確立することが不可欠なんですね。そんなことを考えながら、思いを共有するコンサルタントの紺野登さんと一緒に執筆しました。

――哲学にまで踏み込んで知の鍛錬法を論じておられます。

野中: 知の原点は哲学にあります。アリストテレスは「すべての人間は生まれながらにして知ることを欲する」といいましたが、人は生まれながらにしてイノベーションやクリエーションを欲しており、組織はそれを支援するためにあるというのがわれわれの考え方です。哲学では知識を「正当化された真なる信念」と定義しています。最初にあるのは個人の「思い」であり、それを真実に向かって普遍化・正当化していくダイナミックなプロセスが「知」であるということです。他人や本から得た情報を「知」にするには思索、実習、実践などを通じて能動的に自分のものにしなければなりません。

――知は「思い」を普遍化・正当化する過程ですか…。

野中: そうです。先ほどいった暗黙知と形式知のスパイラル運動は、現実には共同化(Socialization)、表出化(Externalization)、連結化(Combination)、内面化(Internali‐zation)という4つの知識創造のプロセスに分解でき、これを称して「SECIモデル」といっているわけですが、当然これも哲学と深い関わりがあります。

――SECIモデルは知識創造のプロセスを多くの企業が実践できるよう理論化した手法ですが、単純な機械的プロセスではないと。

野中: ええ。まず「共同化」の基本は共体験にあります。言語を媒介にしないで知を共有したり、その知を生み出していくやり方です。
 「表出化」では、同じ体験をした者の間でしか共有できない思いとかノウハウといった暗黙知を言語化します。もっといえば言語を磨き磨いて概念、コンセプトにまで昇華させる。ちょうどサーチライトみたいに、ある事象をある特定の視点からフォーカスして、その本質をえぐり出すわけですね。

――かつ、ロジカルにですね。

野中: そう。ロジカルでなければいけません。次に新しいコンセプトもそのままでは形にならないので、他の形式知と組み合わせてスペックに落とし込み、文書やデータベースなど誰もが利用可能な形態に加工する。これが「連結化」です。企業でいえばアイデアから製品や組織を設計する作業にあたります。
 「内面化」では新たな設計をもとに行動を起こし、例えば製品やサービスに具現化する。その過程で個人が新たな暗黙知を体得するとともに、製品を媒介にした顧客との相互作用が触発され、再び共同化につながっていくわけです。

■知を創造できなかった米国のナレッジマネジメント

――知のスパイラル運動は、この4つのモードを無限に繰り返す営みと理解すればいいわけですね。

野中: そうです。先ほどアメリカのナレッジマネジメントは知識経営の一部にすぎないといいましたが、彼らが取り組んだのは連結化のプロセスです。形式知同士の組み合わせはITを使うことで容易にかつ迅速に展開できるわけです。しかし他社のベンチマーキングを通じて導入した知識は基本的に形式知。模倣に終始し、知識創造の力を失う危険性がある。アメリカの場合もITに過剰にバイアスがかかり、創造まではいかなかったわけです。その一つの結果がドットコム・ビジネスの崩壊です。つまりコモディティレベルの知しか共有化できていなかった。

――日本企業はどうなんでしょう。

野中: 日本の場合はどちらかというと暗黙知系に傾斜していました。形式知も重要であるにもかかわらずですね。その結果、知の新陳代謝が非常に遅くなったわけですよ。しかも日本企業はファッショナブルです(笑)。新しい戦略理論が入ると、やれこっちだ、あっちだと。どうも知識に対する切実感や切迫感がない。それにIT化にも出遅れました。結局、右往左往しながらやってきたのが今の姿です。

――先ほど暗黙知と形式知はせめぎあわなければいけないといわれました。しかしあえてお聞きしたいのですが、トータルな知識創造ではどちらが重要なのですか。

野中: 企業本来の競争力は暗黙知です。他社に真似のできないコンピタンスの多くは暗黙知からなっています。それを高質なものにするためにもSECIを回さないといけないわけですね。

――以前、数学者の藤原正彦さんにインタビューさせていただいたことがあります。藤原教授によれば、世界的な数学者だった岡潔先生は若いときにフランスに留学し、研究分野を「多変数函数論」にすると思い定めました。ところが留学を終え、研究にとりかかる前の一年間は丸々俳諧の勉強に没頭されたというんですね。そして当時世界三大難問といわれた問題を全部一人で解いてしまった。そのお話を聞いて思ったのは情緒の重要性とともに暗黙知の存在です。

野中: なるほど…。「知の方法論」は哲学に支えられているということですね。SECIモデルも同じです。共同化は身体五感の直接経験の世界です。例えば顧客との間で時間・空間を共有し、共感し、共鳴し、共棲して主体と客体が一体になる。暗黙知というのは主客一体ですから限りなく対象に入り込みます。するとアッという気づきが起こるわけですね。それが直接体験のすごさです。

■ソクラテス、プラトンのごとく「本質」を突き詰めよ

――西田幾多郎が「純粋経験」という独特の言葉で表現しています。

野中: そう。ありのままを直観したときにわれわれはより真実に近づくんだといってますね。分析してはいかんのだと。分析前の純粋な経験ということですよね。禅でも我を捨てる、ありのままに対象に没入するんだといっています。

――そこを経営学の世界で切り込むというのはすごいことです。ただ対象と一体化するとか、いわゆる精神現象論の部分は欧米人にはなかなか理解しにくいのでは?

野中: 例えばフッサールの現象学などは西田哲学に近いですよね。だから、ないわけではない。しかし欧米は先に分析ありきの国ですから、やはり相手を対象化するということが経営学では多いですね。

――共同化が西田幾多郎ということであれば、表出化は誰ですか。

野中: プラトンです。真・善・美のイデア(本質・真の実在)追求はプラトン哲学の最も特徴的な知の型です。それは師のソクラテスが確立した哲学の基本姿勢でもあるわけですね。だからプラトンとソクラテスの対話は、われわれが当たり前と思っていた前提とか命題を突き崩す。「これは本質ではない、では本質は何か」と絶えず問いかけるわけです。

――産婆術ですね。

野中: そう。産婆術です。直観とかアイデアが湧いてきますね。暗黙知というのはまだイメージの状況にありますから…。
――言わんとして言い難し、という状況ですか…。

野中: そう。そいつの本質を産婆術でとらえ、きちっと言語化していくわけですよ。表出化では分析を入れるので、反省的に反芻します。だけど、もっと重要なのは人との対話で言葉を磨きあげていくことです。徹底した対話で本質を突き詰めていかないといいコンセプトにはなりません。日本の企業人はとりわけこのコンセプト創造力が弱い。

――私どもでもOJTをやりますが、どうしても浅くなります。

野中: 本質は何かというところから始めていないからです。まずお互いの思いをぶつけあう。真理の探究プロセスですからね、対話というのは。それがソクラテスの産婆術です。演繹法ではよく「すべての人間は死ぬ」「ソクラテスは人間である」「故にソクラテスは死ぬ」とやる。確かにそうなんだけど、だから何なんだと。どこにも新しい視点が生み出されていません。むしろ与えられた命題を問い直さないといけない。「死ぬとはどういうことなのか」「不死身というのがあるじゃないか」と。こういうところから対話を始めて、最後に弁証法的に新しい命題を生み出していくのが創造なんだと思います。

■知の方法論を型化しているホンダの「ワイガヤ」

――ただそれを組織で行うというときに、できる人材とできない人材がいますね…。

野中: まあ確かに資質の問題はあります。真・善・美というか、志のようなものも必要です。しかしまず知識創造の方法論、SECIを叩き込むということでしょうね。そして知の方法論を型化するというか、仕組みにするわけです。例えばホンダの「ワイガヤ」のようにですね。何のためにやるのかという根本命題をとことん問い続ける。あれはSECIを彼らの言葉で型化しているわけです。
 トヨタの場合は議論のなかで「なぜ」という質問を5回繰り返します。3回目くらいまでは何とか答えられるが、それ以上問い詰められると自分の哲学まで語らざるを得なくなります。そこまで語れない意見は評価しないし、実行に移せないということですね。

――なるほど。公然たるルールにしたがってそれをやっていると。

野中: そうです。躾というか知の作法です。どうもいい会社の経営者は哲学者とはいわないまでも、みなしつこいですよ。根源にまでさかのぼって本質を問います。
 いずれにしろ、そのあたりをつかんでいる会社とつかんでいない会社では、同じことをやっていても雲泥の差があります。もちろん、そうした知の方法論はトップ自ら現場に行って範を垂れ、営々と積み上げていって型化しているわけですね。

――それを新製品や新技術、斬新な企業活動として現実化させると。しかし、そういう場をつくり、社員が成長するのをじっと我慢して見ているというのは、中小企業の経営者にとっては辛いところがあります。

野中: 組織的に型を共有させるところまではいかない?

――結局、社員にとってはエピソードで終わってしまうわけです。

野中: なるほど。まさに我慢ですよ。それと型というのは個人化すると、成功体験がルーティン化しやすい面があります。以前われわれが書いた『失敗の本質』はそういう話なんですよ。かつての日本軍は成功体験に過剰適応したわけです。旧軍のリーダーにも何人かお会いしましたが、皆さん人の話を聞かない。これは中小企業のリーダーにも共通していえることかもしれません。

――書いておられますね。ミッドウェーでもガダルカナルでもインパールでも、敵の動きが変化しているのにそれに対応した戦略変更ができませんでした。

野中: 弁証法は「正・反・合」で説明されます。ひとつの命題に関して私はこう思うといったことに対し、アンチテーゼが起こり、それを革新的に組み合わせて、最後に「綜合」するわけです。創造的破壊ですよ。当然、自己主張がないといけない。しかし、ここが難しいところですが、自己主張するんだけども謙虚でなければならない。事実『ビジョナリーカンパニー2』に登場するアメリカの企業11社のリーダーたちはみな非常に謙虚です。謙虚であるというのはつまり多面的にものをみるということなんです。これができないとSECIも回りません。タイプとしてはシーザーよりもソクラテス、パットン将軍よりリンカーンに近い。彼らは思索的で謙虚で、いったん為すことが決まれば断固として行動します。

■実践と分析が一体化したイチローは「クリエイティブ・ルーティン」の極み

――いや、いいお話をお聞かせいただきました。最後になりますが、日本企業がかつてのパワーを取り戻すためには何が必要だと思われますか。

野中: 「守・破・離」のプロセスは世阿弥が唱えた知のプロセスです。「守」は基本の型を守り、模範通り行うこと。「破」は基本から抜け出し自分らしさを発見していく段階。そして「離」で全く新しい型を創造する。型に入って型に出るということですね。単なる型ではなく、ルーティンを超えた知識創造の型。われわれは「クリエイティブ・ルーティン」と呼んでいますが、日本企業にいま求められているのはこれだと思います。
 例えば大リーグのイチロー選手。彼のすごさは自分の理想とするフォームをイメージし、実際のバッティングと理想のフォームとのギャップをフィードバックして改善し、常に理想に近づけていくところにある。実践と分析が一体化しているわけですね。これがクリエイティブ・ルーティンの真髄です。

――なるほど。すごいお話です。

野中: 一人ひとりの社員が高い志をもち、常にこうした力を磨いて、個人から集団へ、自己から組織へと絶えざる綜合、弁証法的飛躍を続けていく。つまり知の綜合力で勝負する。何でもやる総ではなくて正・反・合の「綜」、まとめるという意味の「綜合力経営」です。それにはまずSECIの原点に戻って、知を創造することです。

●プロフィール
のなか・いくじろう
 一橋大学大学院国際企業戦略研究科教授、カリフォルニア大学経営大学院(バークレー校)ゼロックス知識学特別名誉教授。カリフォルニア大学Ph D. 南山大学、防衛大学、一橋大学イノベーション研究センター、北陸先端科学技術大学院大学各教授を経て現職。「知識経営」の世界的研究者として知られ、『知識創造企業』(邦訳・東洋経済新報社)で組織による知識創造の一般理論を確立した。著書多数。