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第4回 隠居大名の執念
●溜池造成に賭けた生涯●
木下俊長
文/撮影 泉秀樹



 豊後・日出(大分県速見郡)三代領主・木下俊長(内蔵頭)が領内の水原に別邸「お茶屋」(妙喜庵)を建てたのは宝永元年(1704)3月末のことである。俊長はすでに64歳になっており、四代当主の座は子の俊量に譲って隠居していた。
 しかしこの「お茶屋」は、花鳥風月や茶ノ湯を楽しむただの隠居の庵ではなかった。すぐ近くの覚雲村長河原の池床を領内最大の溜池に造成するための仮の宿舎であった。
 俊長はすでに長河原の池床を調査してあったが、4月8日に郡奉行・菅沼権右衛門をはじめ庄屋・仁王五郎八・藤原喜助・井手茂兵衛の各庄屋らとともに改めて視察した。
 俊長は彼等に造成する土手の「積」(見積り)を出させた。 ――土手の幅20間(約36m)/土手の基底部の長さ20間(約36m)/中段は40間(約72m)/築留(上部)60間(約108m)/高さ11間(約20m)/坪数6,000坪(約19,800平方m)/夫役数36,000人――
 17日にも俊長は同じ者の他に大工傳九郎らとともに現地を訪れて「水盛」(備蓄できる水量の計算)をやらせた。
 傳九郎は水面の面積が5町6反(約56,000平方m)になると計算し、その水の重量を11間(約20m)の高さの土手で支えるのは難しいから、土手の基底部の幅を25間(約45m)にしなければならないと算出した。5間(約9m)分増えることになるが、それは基底部から水面までの池床の底に散乱している石を集めて土手を固め、堰堤そのものの重さを増やして耐圧力を増強すること。
 俊長はこうした数字に基づいて、この大工事にとりかかることを決定したのである。

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富水池(とみずいけ)は国道10号線から5キロほどうねりくねった坂道を登った山中にある。 改修工事中で水位が低くなっているが、満水時は木の生え際まで池になる。

 木下延俊が徳川家康から豊後速見郡内(日出)三万石をあたえられたのは慶長6年(1601)4月のことであった。延俊は秀吉の妻・北政所(ねね)の兄・家定の三男で、前年の関ヶ原の合戦で家康側に加わり、戦功があったとされたのである。
 この延俊は、寛永19年(1642)正月7日に66歳で江戸で亡くなった。
 だが、その死に際して、延俊は二代当主に三男・俊治を指名し、四男・延由に立石五千石を分知せよと遺言した。
 しかし、表高三万石の小さな国を二つに割ったことが領民を困窮のどん底に突き落とした。
 分封された立石五千石は質の高い耕作地であったけれども、残り二万五千石の領地は実収七、八千石しかないといわれるほど水に不足している土地だったのである。このため日出と立石は根深い対立をつづけることになるが、それはともかく日出の領民は「免六ツ」という税を課された。「六公四民」という重税であり、ときには「八公二民」であったというからすさまじい重税である。
 そして、寛文元年(1661)4月3日、二代当主・俊治が江戸参勤の途中、東海道・二川の宿(愛知県豊橋市)で急死し、同年7月に三男の俊長が14歳で家督を相続した。
 領国の経営が息も絶え絶えという状況下の相続である。
 その2年後の寛文3年(1663)7月28日、大神、藤原、山香の農民8954名が逃散するという事件が起った。3つの村の全員が隣国の木付(杵築)領に逃げこんだのだが、領主の松平英親は温情を示し、幕府の裁定も入って男には米1升、女には7合半、各自に衣類1枚をあたえて日出に送り返した。
 このとき江戸にいた俊長は、まだ16歳である。無力感に打ちのめされたことだろう。
 しかし、水さえ確保できればよかった。
 日出は内海型の温暖な気候で雨が少ない。
 田を潤す川は木付領との境界の八坂川しかない。八坂川は山香・山里と広瀬村の一部にしか役立たず、日出・里目には潅漑に利用できるような川はない。
 となれば、溜池をつくるしかない。
 若い俊長はためらうことなくその造成に取り組んだ。
 まず、寛文11年(1671)に大神・辻の堂に初めて溜池をつくった。12年にも山浦村大池をつくった。元禄7年(1694)には大神に照川ノ池を、同10年には藤原村に笹原池を、また大神に後谷ノ池、藤原村に水谷池などなど、俊長はなにかに憑かれたように溜池を造成しつづけた。
 その労役に耐えられず、元禄10年(1697)には常道(山香町)、広瀬、八坂(杵築町)の農民男女292人が再び逃散し、木付領に逃げこんだ。
 が、俊長は溜池をつくりつづけ、最後の長河原の溜池造成にとりかかるまでに30ヵ所近い溜池を完成させていた。

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富水池の改修工事で掘り出された江戸時代の松材の樋と明治時代の石樋。これが堰堤に斜めに埋められていて、円い穴の栓を抜いて放水量を調節した。

 長河原の溜池普請がはじまったのは正徳2年(1712)1月7日で、領内の16から60歳までの4,800名に出役が命じられた。狩り出された農民を2,400名ずつ2組に分けて工事にとりかかった。
 池床の草木を抜き取り、岩石を取り除き、湧き水や流入する水を脇の水路に流して水気を抜く。さらに表土を剥ぎ、露出した岩盤の池床基底部を乾燥させる。
 よく乾燥させたあと、近くの和田平という台地から掘り出した粒子の緻密な粘土を厚さ三尺ほど敷きつめて突き固める。樫の棒で叩くボテ突き、手杵、太い松丸太に2本の把手をつけた一人臼、丸太で三角に櫓を組んで綱で引きあげては重い杵を落下させる胴突き(ヨイトマケ)などで徹底的に突き固める。
 これを正徳4年(1714)まで3年間、19,165人の農民が雨の日も風の日も飽まずたゆまずつづけてほぼ完成にこぎつけた。
 もちろん労役の農民には大変な苦しみで「糞の皮を剥ぐ」という言葉まで生まれた。仕事の辛さから逃げるため故意に便所へ行き、ひと休みしたあと古い大便の乾いた皮を剥いで監視役人に見せ、新しい大便のように思いこませたのである。
 正徳4年2月24日、俊長は井手八幡宮でくじをつくった。「長富池」「常盤池」「富水池」の三本くじで、これを家臣に引かせると「富水池」と出たので、以後これを正式名称とした(現在の通称は南河原の池)。
 そして、俊長は享保元年(1716)9月8日に没した。
 俊長の死後も、しかし、富水池の井路開削、拡張工事、改修工事、潰壊修理などの工事がたえまなく続き、寛政7年(1795)までの92年間に述べ60,900人が動員された。
 その結果、新田が約40町(約40万平方m)開発され、日焼田と呼ばれるおびただしい下田が上田に変わった。
 労役に狩り出された上に「川成、池成、井手成」(水利用税)を払わなければならない農民の生活はあまり改善されなかったが、この富水池は現在もなお約24万立方mの水をたたえ、潅漑面積は60ヘクタールを越えるという。


いずみ・ひでき
昭和18年静岡県浜松市生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者・編集者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書は『海の往還記』(中央公論新社)『天皇の四十七士』(立風書房)など多数。
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