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第6回 意思の持続とメンテナンス
●天下統一と治水工事に生きた武田信玄●
文/撮影 泉秀樹



 武田信玄(晴信)が父・信虎を「悪行」を理由に駿河へ追放してみずから甲斐の国主になったのは天文12年(1541)6月のことである。
 国主の座についた21歳の信玄は、ただちに竜王(山梨県中巨摩郡竜王町)で合流する釜無川と御勅使川に築堤工事を開始した。

 甲斐の国は北、東に2000メートル級の山が連なっている。
 西は白根北岳を最高峰とする南アルプス(赤石山脈)が南北に横たわり、これらの山峡に甲府盆地が抱かれている。
 この山に囲まれた甲府盆地は御勅使川、釜無川、笛吹川、荒川などの扇状地であり、これらののべつ氾濫する暴れ川によって古くから慢性的に洪水に襲われていた。
 文正元年(1466)から永禄4年(1561)までの富士山の北麓一帯の気候や農業、経済や飢餓、武田家や今川家の抗争の様子などを記録した『妙法寺記』によれば、甲斐は天災に襲われつづけている。
「比年5月6月7月迄大雨降テ耕作凶」(天文2年)
「此春言語断餓死到(至)候而、人々ツマル事無限(たいへん難儀した)。次ニ疾病ハヤリ……」(天文3年)
 などという状況がくりかえされ、信玄が国主の座につく前年の天文九年に至っては「5月6月大雨…8月11日ニ大風…堂寺社悉吹キタフシ(吹き倒し)申候。地下(領民)ノ家ハ千ニ1万ニ1(せんにいちまんにちにて)御座候」
 大雨につづいて台風で寺も神社も倒壊し、百姓町人の家は千か万にひとつしか助からなかった、という。
 信玄の父・信虎はこうした惨状をかえりみることなく領民に過重な税を課し、遊楽にふけり、暴虐にふるまった。そして鷹狩りに出たとき働いている百姓が放鷹の邪魔になるといって殺害するような「悪行」を重ねたことを理由に追放された天文10年も、甲斐は飢えた人馬が死ぬことはなはだしく「8月9月度々大風吹」という悲惨なありさまだった。
 もともと信玄は日常的にすさまじい災害をみながら育っていた。1日も早く治水工事にとりかからなければならないことは骨の髄まで思い知らされていたのである。


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武田信玄(柳沢吉里筆・恵林寺蔵)



 釜無川は駒ヶ岳の西に源流があり、甲斐と信濃の国境を迂回して竜王西北部を流れる。
 御勅使川は蘆倉山中に源があり、駒場、築山経由で竜王西北部で釜無川に合流する。
 つまり釜無・御勅使の両川は竜王西北部で合流する。それも雨のときの御勅使川はすさまじい勢いで激流となって流れている釜無川にぶつかる。この暴れ放題の合流点が氾濫源となって甲府盆地は水びたしになってしまうのである。
 ただしこの合流点を強化してうまく合流させれば、釜無川は竜王からさらに南下して笛吹川と合流し、甲斐の田畑を潤してから富士川となって駿河へ流れて太平洋に出てゆく。
 信玄は白根町駒場、有野の5ヵ所に石の「積出(堤)」を築いてまず御勅使川の急流の力を弱めながら水勢の方向を北東に向けた。  さらに御勅使川がストレートに釜無川にぶつからないようにするため六科(八田村)の西に「将棋頭」という上流に向かって三角に突き出した石堤を築いた。三角の突端で流れを2つに分け、北側の主流が釜無川左岸の高岩(赤巌)という岩の崖に突きあたるようにしたのである。
 またその合流点には16個の巨石をおいた(「16石」)から御勅使川の流れはこれらの巨石に力を弱められ、釜無川の流れにも水勢を相殺されることになる。
 ただし両川の流水量がここで何倍にもなるから、高岩の下流、釜無川左岸に幅八間(約14.4メートル)、長さ350間(約630メートル)の本土手を築いた。
 この土手には竹や雑木を植えて補強して「雁行堤」といわれる川の中心に向かって斜めに突き出した5つの堤をつくり、対岸にも同様の堤を設けて水流を循環させ、水の勢いを弱めるようにした。
 こうした先端的な土木技術による全体が「信玄堤」である。その考え方、技術は「甲州流」と総称されるが、それがどのような発想に基づいていたか、どのような段取りで工事が進められたかなどについては史料が残されていない。詳細不明である。
 しかし「口から口へ」伝えられて「甲州流」は次世代の徳川幕府の利根川治水を行った伊奈忠次らに継承されていったのである。


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信玄堤古図(保坂達氏蔵)。高岩も雁行堤もよくわかる。



 信玄堤は永禄3年(1560)に完成したが、着工してから完成までの19年間、信玄は工事の監督ばかりやっていたわけではない。
 信玄は天下統一に向けて着々と歩を進めていた。
 諏訪頼重、高遠頼継、村上義清、小笠原長時を倒し、上杉謙信とは何度も川中島で戦わなければならなかった。相模・北条氏、駿河・今川との抗争、調略、和睦、そしてくりかえされる合戦。
 家康を警戒し、信長と手を組み、討伐の計画を立て、本願寺・顕如とよしみを通じるなどなど、京に「風林火山」の旗をたてて天下に号令を発するために眠る暇もなかった。
 それもべんべんと待ちの姿勢をとるのではなく、山国の甲斐から積極的に1万、2万の軍勢で打って出て行き、経済的な負担も重かった。
 だが信玄はめげることなく信玄堤を築く不撓不屈の意思を19年間持続しつづけ、これを完成させた。天正元年(1573)に53歳で亡くなるまでの生涯を天下統一のための合戦とこの信玄堤に賭したのである。
 領民はそれなりの負担を強いられたが、のちに肥沃な農地に変わった土地から受けた恩恵の大きさもはかりしれない。
 さらに大切なことは信玄が信玄堤のメンテナンスを重視していた点だ。信玄の永禄3年(1560)8月2日付の文書が残っている。「竜王の川除において、作家に居住せしむれば、棟別役を一切免許すべきものなり」(原文漢文)という。
 「川除」とは信玄堤の保守管理や防水工事のことを指すが、この堤の東南に信玄は戸数50戸の竜王河原宿(竜王町本竜王)を開いた。
 竜王の北の台地の西山・輿石の集落に住む人々を河原宿に移住させて「棟別役」(税金)を免除して「川除」や新田開発を行わせたのである。本竜王にはいまなお「免許屋敷」と呼ばれた間口のせまい奥行きの長い敷地を持つ家が残っており、かつての面影をしのぶことができる。
 ただ単に信玄堤を築造しただけではなく、領民にメンテナンスをやらせることによって生活の基礎をより豊かにして官民が得をする第3セクターに似た仕組みを織り込んだ河川工事だったのである。


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竜王堤図解。簡単な工事のように思われるが、難工事であった。


いずみ・ひでき
昭和18年静岡県浜松市生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者・編集者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書は『海の往還記』(中央公論新社)『東海道の城を歩く』(立風書房)など多数。
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