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第7回 夢を走らせた男 福住正兄
●幕末維新の町おこし●
文/撮影 泉秀樹



 大沢政吉は文政7年(1824)8月21日、相模・大住郡片岡村(神奈川県平塚市片岡)の名主・市左衛門の5男として生まれた。
 幼いときから儒学、和歌を学び、四書五経を素読して16歳のころから農業に従事した。
 21歳のとき政吉は医師を志し、父・市左衛門に相談したところ「国を救う大医である尊徳(二宮金次郎)先生に入門したらどうか」とすすめられて二宮塾に入り、門下生の一人になった。


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福住正兄



 二宮塾には講義はなかった。
 尊徳の生活を眺め、その話をよく聞いて記憶する。
 粗衣粗食、深夜に就寝し、早暁に起床する。尊徳の身辺の世話、下書きの清書、代筆、地方の農地巡回に随行する。尊徳の身辺にあってひたすら禁欲的な禅僧にも似た生活を送る毎日なのだが、これを政吉は「比類なき仕合せ」(『福翁昔物語』)と感じていた。 そして政吉は27歳になった六年後の嘉永3年(1850)二宮塾を退塾した。兄が養子の話を持ってきたからである。
 政吉は火事に遭うなどしてすっかり家運が傾いていた箱根・湯本村(神奈川県足柄下郡)の旅館・福住に婿入りして十代・福住九蔵を襲名した。
 この養子縁組が決まったとき、尊徳は「己れを恭しく正しく温泉宿をするのみ」といった。「己れを恭しくする」とは「品行を慎んで、堕落しない」ということだった。
 九蔵は早速「正直」と「安値」と「貴賎の差別」をしない経営方針を定め、福住はみるみる立ち直り、繁盛しはじめ、現在に至る。
 養子になった翌年の嘉永4年(1851)秋、九蔵は湯本村の名主になり、安政3年(1856)には箱根14ヵ村取締役になった。
 同時に九蔵は湯本に10数軒あった宿の、いい加減に設定された宿泊料や酒代を脅し取る習慣があった駕籠代、土産物や結髪、按摩などの料金を適正化したから、湯本全体が信用を得てどんどん賑わうようになっていった。
 九蔵はよく働いた。家督を継いだ27歳から40を越えるまで誰よりも早く起きて入浴し、神仏を拝し、早立ちの客を送り出した。そのあとは帳場で本を読みながら使用人を指図した。番頭を置かなかったのは人件費を節約するためであった。
 この間、2回の大地震や大火災、幕末の動乱を乗りこえた九蔵は、明治4年(1871)48歳で長男に家督を譲って「正兄」と改名した(以下・正兄)。
 また、この前の年の10月、正兄は福住に湯治に来た福沢諭吉と出会って大きな影響を受けた。
 正兄は10歳以上も年下の諭吉の学識を尊敬し、諭吉は正兄の社会の変化に対応してきた行動力、実践力を尊敬した。先に述べたように「己を恭しく」と考える東洋的な思想に基づく正兄と「物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり」(『学問のすゝめ』)という西欧的な合理主義をいちはやく吸収した諭吉はすぐさま意気投合した。
 二人は地方々々のコミュニティを豊かに向上させることこそ日本の繁栄につながり、そのために文明開化の時代にふさわしい先進的な民間経済活動をやろうと考えていたのである。

 明治6年(1873)3月16日、諭吉は『足柄新聞』に「箱根普請の相談」という箱根七湯の人々に向けた強烈な文章を書いた。
「人間渡世の道ハ眼前の欲を離れて後の日の利益を計ること最も大切なり……(中略)……湯場(箱根)の人々無学のくせに眼前の欲ハ深く」と指摘し、湯本と塔の沢の間に新道を作ることを提案する挑発的な記事である。
 この記事に共感した正兄は2年後の明治8年(1875)5月、板橋村(小田原市)から湯本村字山崎に至る約4.1kmの東海道を約4.5m〜5.4mに広げ、途中の難所であるお塔坂を開削する工事にとりかかった。
 費用は「道銭(通行料)」を5年間徴収して償却する計画で、これが日本最初の有料道路となった。
 そして、5年間で徴収した道銭は1602円40銭4厘。
 工事費は1685円72銭8厘。その他諸経費を差し引くと計210円28銭3厘の赤字が出た。この内123円余を正兄個人が負担した。
 しかし、とにかく道路が開削されて湯本のすぐ近くまで人力車や乗合馬車が入るようになったから、箱根を訪れる客も増えた。
 つづいて正兄は2期工事として湯本村字山崎(箱根町)の台地の峻難な坂道を切り通しとして三枚橋に至る約510mの開削にとりかかった。これは難工事だったが、明治15年(1882)にはようやく湯本まで人力車や馬車でたやすく行けるようになった。


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箱根湯本・富士屋ホテル下に残る馬車鉄道の走っていた鉄道の跡。いまは絶好の散歩道になっている。(左上写真)
湯本と山崎の間の前田橋があったところには、いまも小さな吊り橋が架かっている。右の道は箱根新道入口。早川は鮎の釣り場だ。(右下写真)



 明治19年(1886)7月、東海道線が新橋から国府津まで開通し、箱根を避けて山北、御殿場経由で沼津へ行くコースが決定したため、正兄は国府津・湯本間に馬車鉄道を敷設することにした。
 2年後…。
 明治21年(1888)10月1日、東海道線の国府津停車場前から小田原を経由して湯本村まで敷設された鉄道の上を、定員6名、立ち席を入れると12、3名で超満員になる小さな車輛を曳く2頭立ての馬車が走った。
 この馬車鉄道は国府津から小田原、板橋村、お塔坂(小田原市)まで東海道を通り、湯本村字山崎の切り通しの急峻な坂道を避けて風祭(小田原市)の手前から早川の左岸を堤防に沿って走った。
 三枚橋の手前で早川に架けられた前田橋を渡って右岸を通り、再び早川に架けられた落合橋を渡って左岸を走り、湯本村の終点(箱根湯本「河鹿荘」の前)に着いた。所要時間約1時間20分である(地図参照)。
 正兄は「明治8年官に乞ふて車道を開きてより、漸々に工事を重ねて今の道となせるを、今21年にこの朝日(旭)橋と国府津停車場の間3里9町(12.9km)、馬車鉄道の通路となれるなり。14年前を思ヘハ実に夢の如くになん」(『箱根七湯志 増補版』)といった。
 正兄にとって馬車鉄道は自分の夢が走っているように映ったのである。この馬車鉄道のおかげで東京・湯本は日帰りできることになって「箱根七湯の繁昌昔日に百倍せり」(『箱根温泉誌』)という。
 
 明治25年(1892)5月20日、正兄は69歳で亡くなり、馬車鉄道はその8年後の明治33年(1900)3月21日から電車に変わった。これが現在の伊豆箱根鉄道である。
 今、大多数の人は偉大なことができたのは昔のことだからで、現代は個人ではなにもできないというが、正兄は著書のなかでこう述べている。
 「昔の木の実は大木になるが、今の木の実は大木にならぬ、というわけは決してござらぬ。昔の木の実はすなわち今の大木、今の木の実はすなわち後世の大木に相違ない」(『富国捷径』)と。


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右上から流れているのが須雲川、右から左へ流れるのが早川。右の「萬翠楼」とあるのが福住正兄が経営する旅館・福住。馬車鉄道は上りと下りがすれ違うところだ。左端が落合橋である。


いずみ・ひでき
昭和18年静岡県浜松市生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者・編集者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書は『海の往還記』(中央公論新社)『東海道の城を歩く』(立風書房)など多数。
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