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第8回
国のグランド・デザインを実現した
田中吉政

●水の都をつくる●
文/撮影 泉秀樹



 田中吉政は天文17年(1584)近江高島郡田中村(滋賀県)に生まれた。
 父・重政。母は国友与左衛門の姉といわれるが、名もない農民の出であったともいわれる。
 はじめ宮部善祥坊(比叡山の僧兵出身、のち秀吉の御咄衆)に仕えて次第に頭角をあらわし、信長に引き立てられた。本能寺の変で信長が倒れたあとは、秀吉の依頼で豊臣秀次の家老格として五千石を知行、近江八幡城(滋賀県)築城の際は、街と琵琶湖を結ぶ「八幡堀」を開削した。
 天正18年(1590)10月、小田原北条攻略。吉政は箱根・山中城攻めに功績をあげて岡崎城(愛知県)5万7400石を領した。このときは籠田・本町・板屋町など7つの町を囲む「田中堀」をつくり、東海道の道筋を「岡崎の27曲がり」とよばれるクランク状の道に整備した。以来、矢作川の舟人が「お城下まで舟がつく」(岡崎小唄)と歌うようになった。
 吉政は堀を掘るのが得意であったということで、先の近江八幡の「八幡堀」や岡崎の「田中堀」は記憶にとどめる必要がある。
 秀吉没後は家康に接近、会津征伐に同行し、石田三成挙兵の報に接して下野・小山(栃木県)から東軍の軍監として急行し、西軍の岐阜城を攻略した。
 関ヶ原の合戦では三成の本隊である島左近隊と激闘、さらに佐和山城を落とし、伊吹山麓で三成を捕らえたときは乞われるままニラ粥を炊いて食べさせ、手厚く遇した。
 こうした功績で吉政は慶長5年(1600)11月、柳川32万石に移封され、筑後(福岡県)を統治することになった。
 筑紫平野はもともと筑後川などの氾濫原であり、低湿地帯であった。のべつ洪水の脅威にさらされている場所だが、皮肉なことにこうした平野が最も肥沃で稲作に適している。
 したがって、吉政入部のころにはすでに筑後・矢部両河川を中心とする主要な川から分流させた溝渠が細密な網の目状の構図を描いていた。溝渠は旱魃時には溜池になり、雨量が多いときは排水をスムーズに行う。春には底のガタ(泥土)を田に掻きあげる。沈澱したガタの有機物は肥料になり、溝渠は深くなるという知恵である。
 吉政は三井郡善導寺付近から有明海に至る大運河を開いたのをはじめ、放水路、川の支流を新たに掘った。
 治水によって経済的基盤を安定・拡大・充実させ、水運の利の向上と軍事的な防衛ラインを敷設したのである。
 吉政には近江八幡の「八幡堀」と岡崎の「田中堀」開削の経験があり、これは大いに役立ったはずである。ただ膨大な労力を要し、財政は苦しかった。
 しかし、吉政は有明海の干拓にも力を入れた。この内海は波静かで干潮の水位差5、6メートルもあり、干潮時ははるかかなたまで干潟が露出する。
 吉政はまず有明海沿岸に30キロにわたる堅固な潮受堤防を築いた。「慶長の本土居」(柳川市古賀〜大川市上新田・下新田)である。そして、吉政はすでに干拓で比較的陸地化していた個所から満潮時に逆流する潮止めの堰堤や水路を築かせ、魚鱗状に、あるいは矩形状に埋め立てていった。それらの開地(新田)に税制上の特典をあたえ、農民を移住させた。
 同時に、吉政は城と城下町を整備した。
 西北の沖ノ端川と東の塩塚川を外濠とする東西2キロという規模の城で、城塁も固め、五層(高さ40メートル)八ッ棟造りの天守閣を建てた。
 街はこの城郭を核として、その東北隅から北に向かって発達していった。
 町家の商人は桶屋・畳屋など職業別の組合を持ち、営業制を持つ人数も定められた。一種の統制・専売権である。また「朱引内」(城下町内部)に住むと、運上銀(営業税)だけで宅地・戸数割課税は免除された。


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田中吉政像(柳川・真勝寺蔵)



 柳川生まれの北原白秋が「しほかわ」(潮川)と呼んだ沖ノ端港は、柳川全体の成立に重要な役割を果たした。
 吉政の柳川入部以前から有明海の対岸にある島原半島(長崎県)は口ノ津を中心として、ヨーロッパと見まごう様相を呈していた。平戸・大村・福田・長崎・茂木をこれに加えてもよい。松浦・有馬・大村などの大名が大いにキリシタンを保護したからで、それらの港から波靜かな有明海を渡って柳川に至るのは至極簡単である。
 「博多の宣教師達は、なほ久留米と筑後の主城柳河のキリシタンに手を延ばして世話をした。この城主(吉政)は、敷地を寄進して、伝導所に宛てた」(『日本切支丹宗門史』レオン・パジェス著/吉田小五郎氏訳。以下同じ)
 「久留米や同国の要市柳河には、素晴らしい信者の団体があった。領主田中兵部殿は、好意を示し、天主堂用の土地を寄進した。諸侯は殆んど、皆、進んで説教を聴きに来た」また、イエズス会副管区長フランシスコ・パエス神父が訪れると「城主田中筑後守殿は、大いに歓待した」。柳川には司祭・修士が1人ずついて、1400名の受洗者がいた。さらに「筑後の大名田中も亦、好意ある態度を示した為に、家来は多く洗礼を受けた」。
 このように、吉政はきわめて頻繁、親密にキリシタンと交流していた。

 つまり、沖ノ端港に出入りするキリシタンたちからヨーロッパにベニスという水都があることを、吉政は相当くわしく教えられてこれをモデルにしたということである。
 宣教師たちに教えを乞うまでもなく、すでに天正13年6月下旬、吉政の死の24年も前に「天正少年使節」たちはベニスを訪れている。したがって吉政はベニスに関する知識を、私たちが想像する以上に豊富に持っていたと見るべきだろう。
 西欧先進国の新しい知識をいちはやく取り入れた吉政は、まず柳川を水都として整え、干拓で経済の基盤を拡充し、さらに街道も整備した。柳川と久留米を結ぶ「田中街道」や柳川と八女を結ぶ街道を整備して流通を活発にさせた。
 城下町の整備だけでなく、筑後一国のグランド・デザインを着実に実現していった創造性に富む行政能力は偉大だとしかいいようがない。


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上段の地図は柳川市街図。運河と道路が同じように走っている。
1. 近江八幡市に残る「八幡堀」(昭和50年ごろ撮影)
2. 沖丿端港。干潮のときはこんな風に港が干あがってしまうのがおもしろい。
3. 柳川城本丸跡(現・柳川中学校)
4. 水路をゆく観光の「ドンコ船」は実に楽しい。


いずみ・ひでき
昭和18年静岡県浜松市生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者・編集者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書は『海の往還記』(中央公論新社)『東海道の城を歩く』(立風書房)など多数。
ご意見・ご感想などは 
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