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第9回 川の下に川を流す
●田川カルバートと前田荘助●
文/撮影 泉秀樹



 織田信長・徳川家康の連合軍が浅井長政・朝倉義景の連合軍と雌雄を決した「姉川の合戦」の姉川は近江・大郷村大字落合(滋賀県東浅井郡びわ町)で田川、高時川の二川と合流して琵琶湖に流れ込んでいた。
 ところが、長い間に姉川と高時川の川底には上流から流れ下る土砂がたまり、この二川の間を流れる幅約5.4mの田川より川底が高くなっていた。
 そのため、僅かな雨が降っても姉川と高時川の水嵩が増して田川へ流れ込んで唐国村、月ヶ瀬村、田村、酢村の4ヵ村はのべつ田畑や家屋が「水つき(洪水)」になり、ここを通る北国街道(現在の国道8号線)も、いつも水没して交通が遮断されていた。

 安政元年(1854)から4ヵ村の村人たちの戦いがはじまった。
 まず高時川が姉川に合流する地点を55mほど下流に移動させた。下流の落合村に年30俵を払って高時川を通す土地を借りて水路を開削したのである。
 しかし、ほとんど効果がなかった。
 依然として「水つき」が頻発して田畑がやられ、米も野菜も満足にとれない年がつづいた。
 次に村人たちは田川が姉川に流れ込んでいる合流点に逆水門を設置した。
 姉川の水が田川に逆流してこないようにし、同時に新しい水路を開削して田川を右へ曲流させて高時川の川底の下に「伏樋」を横断させて水を直接琵琶湖へ流す計画を立てたのである。
 開削した新しい川(以下・新川)が通る錦織村、落合村、難破村、八木浜村(びわ町)の4ヵ村は反対したが、このときの彦根領主は井伊直弼だった。折から大老職にあり、その添書をもらって反対意見をおさえ、なおも反対しつづける4ヵ村に対して年80石(200俵)を払うことで渋々承知させた。
 村人たちは朝早くから夜遅くまで新川にする水路を開削し、橋をかけ、用水路を掘るなどして2年がかりでようやく文久元年(1861)に木製の伏樋を高時川の下に通した。
 伏樋は高さ1.2m、幅2.1m、長さ125mで、これが「田川カルバート」(滋賀県東浅井郡虎姫町)の原型である。
 だが、束の間のことだった。
 2、3年で木製の伏樋が腐り、たちまちのうちに水の流れが悪くなった。姉川や高時川も10年ほどの間に川底が1.5mほども土砂で埋まって高くなり、またしても「水つき」になるのは目に見えていた。
 堤防の潰壊、悲鳴のような半鐘の音、渦巻く濁流が田畑や家々に襲いかかる。水が引いたあとの惨澹たる様子になすべくもなく立ちつくす人々。
 文政12年(1829)8月9日、月ヶ瀬村に生まれた前田荘助はこうした環境のなかに育った。
 このため、36歳で「年寄り」(村役)になった荘助は、寝てもさめても田川の水引きをよくしたいということばかりを考えていた。
 が、折から幕末維新の動乱期を迎え、世情が混乱して田川に手をつけるどころではなかった。
 そして明治3年(1870)荘助は「庄屋」になり、明治5年には「戸長」になった。
 すでに月ヶ瀬村の田は葦の生い茂る沼地に変わって「水のつきが瀬」「蛙が小便しても水つきになる」といわれるようになっていた。農民は、税金をとられるのに収穫がない。田畑を売ろうにも、金をつけなければ引きとり手がいない。苦しくて夜逃げする人もいた。
 伏樋はほとんど腐っていた。姉川と高時川の川底は安政年間(1854〜60)からさらに2mも高くなり、毎年の水害はひどくなる一方だった。
 荘助は野村太兵衛(唐国村)、国友長左衛門(酢村)、宮島甚助(田村)らと話し合い、新しく伏樋をつくりかえ、その下流の川幅をひろげるしか方法がないという結論を出した。

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田中吉政像(柳川・真勝寺蔵)

 荘助たちは夜中の2時に起き、大津へ行った。
 80km離れた大津に夕刻到着し、県庁や議員を訪ね回って水害の悲惨さを訴え、新しい伏樋をつくってほしいと陳情し、月ヶ瀬村に翌朝帰り着く。夜通し歩くのである。さもなければ、琵琶湖を舟で往復した。
 荘助たちはこれをくりかえした。
 陳情するとき、荘助たちは「言々悲痛声涙倶下」(悲痛な涙声で訴えた=「田川治水功労者の碑」碑文より)という。その必死な面持ちが想像できる。
 さすがの県も荘助たちの深刻さに気がついて、お雇い外国人・内務省工師ヨハネス・デ・レーケ(オランダ人・土木技師)に調査を依頼し、彼は伏樋=溝渠=カルバートを数倍の規模に拡張し、下流の川幅も広げるべきだというこたえを出した。荘助たちの考えが正しいことが証明されたのだ。
 また、荘助たちの熱誠あふれる訴えに県令(県知事)だった籠手田安定も胸を打たれ、明治15年(1882)には田川改修計画案を県議会に提出した。
 県議会で採決がとられるとき、荘助たちは大津の天満宮で一心に計画の可決を祈っていたという。
 が、この案は否決された。
 費用がかかりすぎること。受益者が限られている。下流の川幅を拡げることに反対するものが多いなどが否決の理由だった。

 荘助たちは諦めなかった。田川改修計画案が否決されたことなど意に介さず、大津通いをつづけた。
 気骨のある県令の籠手田も諦めなかった。
 再度、田川改修計画案を県議会に提出した。
 だが、再度否決された。
 籠手田は尚も諦めず、国の許可をとった。
 籠手田は明治天皇の側近・山岡鉄舟の弟子だったから、政府の要人を動かすことができたと思われる。
 こうしてようやく明治16年(1883)12月、強制工事が開始された。
 荘助以下4名は「率先辛苦鞅掌」(率先して苦しい仕事を手伝った)という。どんなにうれしかったことだろう。
 翌明治17年(1884)長雨のために一部が潰壊する事故もあったが、7月に「田川カルバート」が完成した。
 費用は4万8千841円。うち1万5千円は4ヵ村が負担した。村人はこぞって金になるものは買い手に値段をつけてもらう「振り市」を開き、品物を次々と売り払った。
 寺を丸ごと売った村もあったし、もちろん荘助たちも借りられるだけ金を借りて負担した。
 やがて沼地になっていた田畑は力を回復して収穫をもたらすようになり、水害はほとんどなくなった。
 荘助は大正13年(1924)12月2日、96歳で天寿をまっとうした。みごとな人生である。

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滋賀県東浅井郡虎姫町の田川カルバートを空撮。
1. 明治の田川カルバートの工事。
2. 田川カルバートの現況・昭和41年に新しくつくりなおされた。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県浜松市生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者・編集者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書は『海の往還記』(中央公論新社)『東海道の城を歩く』(立風書房)など多数。
ご意見・ご感想などは
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