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第10回 金箔王国をつくった越野左助
●規制撤廃への挑戦●
文/撮影 泉秀樹



 文禄2年(1593)2月、加賀・能登・越中三国(以下・加賀)の領主になっていた前田利家は肥前・名護屋(佐賀県)に滞陣していた。朝鮮征伐のため名護屋城にあった秀吉に随従していたのである。
 このとき利家は国もとの能登・七尾(石川県七尾市)の小丸山城主・三輪吉宗に宛てて手紙を送っている。
「金子3枚か5枚、はく(金箔)をうたせ申すべく候。5月中にことごとく出来候ように申し付くべく候。加州(加賀・金沢)にても銀はく(銀箔)のこと申し付け候」
 また、この手紙に関連して本拠地の金沢城にいる重臣の篠原一孝らに宛てて「金はく(金箔)のことは能州(三輪吉宗)へ申しつかはし候。そのもとは箔屋あり次第に、銀はく5枚分か10枚分うたせ申すべく候。5月中には出来候ように、かたく申し付くべく候」(『加賀藩史料』)と書き送っている。
 利家が金・銀箔を打たせた目的は明確ではないけれども、このときすでに七尾や金沢では金箔・銀箔が打たれていたことがわかる記述である。小丸山城下の箔屋は鹿島郡矢田郷村矢田(七尾市)にいた箔屋佐助であることも特定されている。
 こうしたことから加賀の金・銀箔は天正12年(1594)に能登・羽咋郡の宝達山で金鉱が開発されたことも考えあわせて利家時代から作られるようになったといわれている。
 しかし、その後、製箔業がどのように発展したのかはわからない。史料がないからである。

 寛文7年(1337)徳川幕府は大名が各自で貨幣を鋳造することを禁じた。貨幣鋳造権を幕府が独占し、金銀銅を一元管理下に置くためである。
 元禄9年(1696)になると、幕府は江戸に箔座を設け、大坂に支所を置いて金・銀箔の製造・販売を統制した。製品には箔座の極印を捺して実質的に幕府専売制にしたのである。
 宝永2年(1705)にはこの統制をさらに強化し、箔は勘定奉行支配下の「御金改所」の統制下に置かれることとなった。
 前田家は3代以降は歴代当主が徳川家から正室を迎えて幕府政庁と直接縁戚関係を結んでいたような趣であったから、この禁制をよく守った。それでも元禄期に金沢で金箔を使った豪勢な工芸品が制作されたのは、地元金沢産の金箔ではなく、江戸箔を扱う有力なブローカーがいたからである。
 金箔商売は幕末近くなった文化5年(1808)にはじめて金沢の地場産業としての一歩を踏み出した。
 この年1月15日夜、金沢城・二の丸から出火して御殿や御広式などが焼失し、再建に莫大な量の金箔が必要となった。
 前田家は幕府から期限つきで金箔打ち立ての許可を得て金沢・安江木町の箔屋伊助に金箔の調達を命じ、伊助は京都から箔打ち職人を招いてこれを製造し、完納した。
 また伊助は金箔打ち立てを独占するかわりに前田家に対して毎年4寸角(約13.2cm四方)の金箔300枚を運上金(税金)として納めた。
 その後、伊助は箔の世界から姿を消すが、京都の職人から箔打ちの技術をさずけられた職人たちは材木町の安田屋助三郎方で細々と仕事をつづけた。
 だが、安田屋で働きながら技術的に今ひとつ充分でないと考えた越中屋与三右衛門は、改めて京都へ行って技術を勉強しなおして同業者にそれを伝授したりし、文政2年(1819)12代・前田斉広が兼六園に竹沢御殿を建てたときは、使用する金箔をすべて安田屋助三郎らが調達できるまでに地場産業として成長していた。
 また文政10年(1827)斉広の女・原姫が会津・松平容敬に嫁すときの調度品を飾った金銀箔もすべて金沢産であった。
 が、密造や前田家の御用箔を打ち立てているだけではあきたらなくなった箔屋たちは次の段階に進むことを考えた。それは、幕府公認のもとで金銀箔を製造し、一般に売る権利を得ることであった。

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 天保13年(1842)4月、金沢・卯辰西養寺前に住む町人・越野(能登屋)左助は箔の打ち立て公認を得る交渉を開始した。
 左助はまず金沢町奉行・水原清五郎・坂井忠左衛門に自分を江戸の箔屋・柏原吉右衛門から箔を安く買う卸元にしてほしいことと、古い箔や破損箔の打ち直しの許可を求める願書を出した。
 が、町奉行は回答しなかった。握りつぶしである。
 左助は江戸へ行って遠縁にあたる幕府の金座手代・塩崎勝兵衛と柏原吉右衛門に会って相談し、越中・富山(忠蔵)、尾張・名古屋(安綱次郎左衛門)、陸奥・仙台(茂兵衛)らが先の願書と同様の裁許を得ていることを教えられ、このことを書き添えた願書を、11月に再び金沢の町奉行に提出した。
 町奉行・水原清五郎は他国に前例があることを知ってか、このたびは前田家の御用部屋に左助の案件を上申した。これは江戸表の前田家・聞番(江戸留守居役=外交・渉外担当)山森権太郎らに伝えられ、聞番たちは幕府・勘定奉行に伺いをたてた。
 天保14年(1843)6月、勘定奉行から聞番に対して江戸箔の買いつけの独占商人を設けることは許可するが、金銀箔の打ち立ては認めないという返事があり、同年8月に左助の願書は却下された。
 しかし、1年を経た弘化元年(1844)8月、左助は町奉行所に3度願書を提出した。
 前田家の領内における金箔専売の許可願いと、幕府の金座取扱い以外の闇の箔の取引きの取締まりにあたりたいという願書である。
 このとき左助が願い出た主旨は奉行所→御用部屋→江戸の聞番→幕府の順で伝えられ、逆の経路で翌弘化2年(1845)3月に許可の看板=鑑札を得ることができた。
 といっても、左助本人が江戸の金座と直接交渉することはできなかった。すべて幕府・金座役人と前田家の聞番が連絡し合い、実際に左助が看板をもらったのは8月末であった。
 箔の専売権の看板をもらった左助は、それで満足したわけではなかった。
 箔の打ち立てを諦めたのではなかった。
 弘化4年(1847)11月、左助はまたしても願書を提出した。いうまでもなく箔の打ち立て許可をとるためであり、ひたすら粘り強く交渉を重ねたと思われる。その交渉の経緯は詳細不明だが、やがて前田家中の御用箔に限って打ち立てを許可するという認可を得ることができた。
 願書を提出してから実に17年後の元治元年(1864)2月のことであり、これ以後、金沢箔は飛躍的に技術の頂点をきわめてゆくことになった。
 そして明治なかばに金沢箔は完全に独走体制に入り、どこまでも右肩上がりに成長しつづけ、金箔は現在金沢が日本のシェア99%を誇っている。銀箔に至ってはシェア100%である。
 それにしても、幕藩体制下の昔も今も、役人の許認可を得るためには……まったく……である。


いずみ・ひでき
昭和18年静岡県浜松市生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者・編集者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書は『海の往還記』(中央公論新社)『東海道の城を歩く』(立風書房)など多数。
ご意見・ご感想などは
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