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第11回 理想の実現と人事異動
●水野忠辰の夢と挫折●
文/撮影 泉秀樹



 水野忠辰は14歳で岡崎6万石の家督を相続した。元文2年(1737)9月のことである。
 江戸で生まれた忠辰は、幼年のころから学問を好み、病に倒れるのではないかと側近たちが心配するほど読書を好んだという。
 水野家の江戸の上屋敷は増上寺切通し小川町、中屋敷は芝三田、下屋敷は本所深川と赤坂薬研坂の両方にあり、忠辰はそれらの屋敷で祖父・忠之の惜しみない愛情と薫陶を受けながら育った。
 忠之は宝永2年(1705)奏者番、正徳元年(1711)に若年寄、同4年には京都所司代、享保2年(1717)9月に老中に就任と、栄達の道を駆けあがった人物である。
 八代将軍・吉宗のもとで「享保の改革」の勝手方(大蔵・財務)担当老中として13年間辛腕をふるい、大きな功績をあげて享保15年(1730)6月に老中を辞した。
 忠之は吉宗の人材登用や政治改革の理想について、上に立つ者の在り方について孫に語りつづけ、忠辰は子供心に深く感銘し、同時に受け大きな影響を受けた。
 享保15年7月、忠之は40歳の次男・忠輝に家督を譲ったが、わずか7年後の元文2年(1737)7月に47歳で没した。忠辰はその2カ月後に領主の座に就いたのである。

 忠辰がはじめて岡崎の城地へ向かったのは寛保2年(1742)19歳のときである。
 岡崎に着いた忠辰はただちに賞罰厳明の仁政の実現にとりかかった。
 まずこのときすでに破綻しかかっていた財政の立て直しのために倹約を励行した。徹底した節約をして5、6年で約5万両のたくわえができた。
 享保3年(1743)11月、藩士から藩が強制的に借り上げていた米を返却し、延享元年(1744)には農民の税を5分(5%)減らした。「惣百姓へ5分通りの租税をゆるさる」(『はい揚録』)という。
 また、勤務成績を給禄、昇進、家督相続に反映させることにした。家柄や格式と無関係に実力主義で人材登用を行うことにしたのである。
 そして寛延2年(1749)正月、忠辰は「心附候儀共相談之書付」6カ条を発表した。
 小さなことは役人がそれぞれの判断で取り計らうこと。礼と徳を重んじ、賞を重く、罰を軽くすること。勤務状態のよい者に褒美や加増を行うこと。これまで小役人が小頭や徒士目付になって精勤しても17俵以上に加増されなかったが、以後は加増すること。年老いた中間に暇を出して餓死させるようなことはしてはならない等々。
 忠辰は祖父・忠之に教えられた通り治者としての理想を実現させるためにこの藩政刷新案をつくった。賞罰厳明の仁政の基本方針としてもっともであり、間違ったところはなかったのである。

 しかし、問題が起こった。忠辰が新しい側近を登用していたことである。
 中村紋左衛門(用人)、山田左次馬(用人)、堺才七(小納戸役)、大久保伝平(留守居役)、牛尾四郎左衛門(留守居役老職)、牧田権八(取締役)たちである。
 彼等は忠辰が江戸にいたころから仕えてきた中・下級の武士であり、もともと初代・忠善の時代からずっと岡崎にいた有力家臣ではなかった。国元の家老や年寄など譜代重役衆はぬくぬくと官僚体勢の上に立って土着的な現状維持、守旧安定路線を踏襲していたのに、その足もと、拠って立つ基盤が新しい革新的な仕法を持ちこまれてゆらぎはじめていることに危機感を抱いたのである。
 そして、それは忠辰の命令に従わないという形の抵抗になった。
 延享3年(1746)忠辰は拝郷源左衛門に江戸詰、松本頼母に国元詰を命じたが、両者ともこれを拒んだ。忠辰は両名に隠居を命じ、嫡子に家督を相続させた。
 翌年、鈴木弥一右衛門は江戸詰を辞して勝手に岡崎へ帰ってしまった。忠辰はそれを罰せず、百石を加増して江戸勝手掛を命じた。弥一右衛門がこれを拒んだので忠辰は加増分を没収して「隠居慎」命じ、8歳の嫡子に家を継がせた。仁政を志していた忠辰はこのほかの命令違反に対しても寛大に対応したのである。
 だが、寛延2年(1749)正月、忠辰は深刻な事態を迎える。
 元旦に新年の挨拶に登城しなければならない重役衆が団結し、全員病気と申し立てて登城せず、2日になっても誰一人出仕しなかった。
 中村紋左衛門(用人)を使いに出して出仕を促したが誰も登城せず、ついには政務にとどこおりが生じ、家中が動揺しはじめた。
 この知らせを江戸で受けた牛尾四郎左衛門(老職)と山田左次馬(用人)が19日に岡崎へもどって事態を収拾し、忠辰と重役衆のこじれた関係はいちおうお互いに譲歩し、鎮静化したかに見えた。

k03-1 spacer この岡崎城へ、水野忠辰は理想に 燃えて着任したのだが……。

k03-2 spacer 岡崎城・内堀。城主と重役が抗争を展開したとは思われないのんびりした風景である。

k03-3 spacer 岡崎城には現在も戦国時代の面影がよく残っている。散策するには最高の環境である。

 忠辰は巻き返しに出た。
 側近を固めなおした。大久保伝平(留守居役)、左吉知安(こ従兼書役)父子、鈴木清左衛門(小納戸兼徒士頭)、鈴木小右衛門(小納戸役取立)などをはじめ、中村紋左衛門、荒川清九郎、堺才七などをさらに取立て、重役衆の手前解任した者を復職させ、あるいは加増したりして失地回復をはかった。
 同時に譜代重役衆に隠居や謹慎を命じたり、家禄を召上げたりして退け、おさえこんでしまおうとした。忠辰がまだ人事異動権を行使できていたということである。
 しかし、手を組んだ重役衆の壁は厚かった。
 忠辰はしだいに何事も動かなくなってゆくことに匙を投げ、ついには側近たちを解任せざるを得なかった(この間の詳細不明)。仁政の理想は敗北し、忠辰は政務に嫌気がさしていつしか酒色にふけるようになっていった。ほかに心の憂さを晴らすすべはなかった。
 そして、宝暦元年(1751)9月14日、忠辰の母・順性院が死んだ。順性院は忠辰の遊蕩三昧の生活をやめさせるために自害したのである。不行跡をいさめるための諌死であった。
 そして11月11日、明六ツ(午前6時)忠辰が順性院の墓参りに行くために寝所から表座敷へ出たところ、最も信頼していた中村、牛尾ら側近が飛びかかって腰の刀を抜きとり、そのまま座敷牢に閉じ込めてしまった。
 忠辰の側近も次々と御役御免、蟄居、入牢などを申しつけられ、政務から外され一掃されてしまった。
 重役衆のクーデターが成功したのである。
 宝暦2年(1752)3月、忠辰は発狂して隠居した、と届けられ、家督はただちに同族の旗本・水野平十郎の次男・忠任が継いだ。
 翌年8月、忠辰は座敷牢のなかで悶々のうちに死んだ。まだ29歳で、失意のあまり憤死したのであったか、幕府の目をおそれて重臣たちが謀って刺客に斬殺させたか、あるいは、毒殺したのかもしれない。
 忠辰の幽閉とその死は理想を実現するためには挫折と敗北と悲惨と戦わなければならないことと、なにごとも変化のないこと、昨日までよかったことは今日もいい、今日いいことは明日もいいと考える人々にとっては安易な妥協、怠惰がいかに甘い魅力にあふれているかを物語っている。
 ただし、その甘い魅力には代償を払わなければならない。
 重役衆が支配をつづけた水野家はこの10年後の宝暦12年(1762)9月に肥前・唐津(佐賀県)に国替えになったが、そのとき藩債が2万両にふくれあがっていたという。


いずみ・ひでき
昭和18年静岡県浜松市生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者・編集者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書は『海の往還記』(中央公論新社)『東海道の城を歩く』(立風書房)など多数。
ご意見・ご感想などは
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