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第12回 海水浴場の始祖
●海を友達にした松本 順●
文/撮影 泉秀樹


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初代軍医総監になってからの松本順。



 夏は太陽と青い空と海の季節だ。
 決まりきったことなのだが、実は夏と湘南と太陽と海を結びつけたのは松本順である。
 松本順は天保3年(1832)6月16日、佐倉藩医・佐藤泰然の次男として江戸・麻布我善坊に生まれた。
 幼名を順之助、のちに良順、さらに順と改名し、号は蘭疇、晩年は楽痴と称した。
 順は18歳のとき幕府の医官・松本良甫の養子になり、安政2年(1855)から幕府に出仕して、2年後には幕命を受けて長崎へ向かった。
 早くから父親や師の坪井信道、林洞海らから西洋医学を学んでいた25歳の順は長崎でオランダ医学を一から勉強する心積りだった。
 この当時はまだ幕府の奥医師は漢方医が主流を占めていてオランダ医学は邪道であるとされていたから、順は逃げ隠れるようにして雨の日に品川を出発したという。

 オランダ船ヤーパン号(のちの咸臨丸)が長崎に来航したのは安政4年(1857)9月21日の夕方であった。
 ヤーパン号にはオランダ海軍中尉H・ファン・カッテンダイケがひきいる海軍伝習の隊員と海軍軍医ポンペ・ファン・メーデルフォルトが乗り組んでいた。
 彼等は幕府が開設し、勝海舟が統括していた「長崎海軍伝習所」の教官である。
 そして、早速ポンペの講義が開始されたが、しかし、ちょっと奇妙なことになった。
 ポンペが行う医学の講義を聞く学生が順ただ1人だったのである。
 これでは師と弟子ともにやりにくく、また、たった1人で受講するのではもったいないということになって、他藩の医学生と町医者12名が加わり、ようやく講義らしい形が整ったという。
 ところが、これが惨憺たることになった。
 ポンペ自身が述べている。
 「彼らはオランダ語を学んだといったが、それは文法だけを学んだのであって、私のいうことと彼らのいうことと全く了解ができなかった。通辞が私のいうことを一語一語訳したが、扱う問題が学生にも通辞にもまったく未知の事柄であるために、良く了解できなかった」
 悲劇というか喜劇というか、ポンペがどんなに熱心に講義しても、学生たちはその言葉をただ音声の羅列としてしか受けとめることができなかったのである。
 だが、ポンペは辛棒強く物理、化学、解剖、生理、薬理学と教えつづけた。
 そして、万延元年(1860)には長崎で日本最初の梅毒検査を行い、つづいて順は長崎奉行にかけあって洋式病院を設立し、ポンペを院長に据えてみずからは副院長になった。
 この病院(精得院)は病院と医学校を兼ねた日本ではじめての公立病院であり、のちに長崎大学医学部に成長してゆくことになる。
 こうして五年間にわたって医学を教えたポンペは、順をはじめ、岩佐純、長与専斉、緒方惟準、戸塚文海ら、のちに日本の医学界の重鎮になる61名の学生に修業証書をあたえて文久2年(1862)にオランダへ帰った。先生も学生もたいへんな努力を重ねてあげた立派な成果であった。
 おなじ文久2年、順は江戸に帰り、31歳で14代将軍・家茂の侍医(法眼)に就任した。めざましい出世であった。
 そして、幕府西洋医学所頭取・緒方洪庵が病没すると、順はその後任をひきつぐことになり、折から戊辰戦争がはじまると、新選組とともに会津へ落ちて軍陣病院を設立した。
 幕臣らしく列藩同盟軍の負傷者の治療にあたったのである。
 が、敗れて朝敵として捕縛された順は江戸に送られて加賀藩邸に幽閉されなければならなかった。
 順は明治3年(1870)5月に釈放されたあとは病院と塾を設立し、翌年の春に陸軍大輔・山県有朋のすすめに従って兵部省に入り、3年後には初代・陸軍軍医総監に任じられて明治21年(1888)まで勤めた。この軍医総監時代の明治18年(1885)に順は「大磯海水浴場」を「開設」して「日本の海水浴場の始祖」といわれるようになったのである。

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写真上左・右:大磯海水浴場には歌舞伎役者もどっと押し寄せた。湘南全体が高級リゾート地になって政府高官、財界人など有名人の別荘地になっていった。そのころの水着のフアッションは非常にセクシーだった(?)
写真右:正面がポンペ。左にすわっているのが松本順。海軍伝習所の面々は青年なのにみんな実に老成した表情である。
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 海水浴場を「開設」したとか「日本の海水浴場の始祖」というのはどういうことか。
 いい忘れていたけれども、かつての日本人には「海水浴」という習慣がなかった。
 海は生活の糧をあたえてくれる生活の場であり、燦々と輝く太陽のもとでただ単純に泳いだり浜辺に寝ころがったりしてひたすら遊んだり休息をとったりするために利用する場所ではなかったのである。
 日本で最も古い海水浴場は横浜根岸(神奈川県)、須磨明石(兵庫県)だという説があるが、実は江戸時代からの尾張・大野浦(愛知県常滑市)がいちばん古い。
 といっても大野浦では海水浴は「潮湯治」(しおとうじ)であり、遊びではなく病気の治療が目的であったから、いま私たちが考える海水浴は日本では行われていなかったといってよい。
 したがって、順が海水浴に着目して一般にひろめようとしたことは、結果として画期的な発想であり大きな業績であった。
 順は「海水浴」を長崎海軍伝習所にいたころポンペに教えられたのである。
 オランダ語で書かれた本のなかに「海水浴」という言葉が出てきてなんのことか理解できず、ポンペにたずねると「欧州では海水浴と云う事は、唱えられているが、海岸の好適地が少ないためあまり一般には省みられていないが、日本は四面海があるから適当な地があるだろう」といわれたのだという(『大磯海水浴場百年を迎えて』)。

 まず順は小田原(神奈川県)に滞在して海水浴場を開くとよいと説いて回ったようだ。
 が、小田原の人々は相手にしなかった。順が小田原で会った人々は頭が悪く想像力に欠けていたのだ。
 のちに順は「予が説を聞く者なし。即ち縁なきを以て去り、途大磯を過ぐ」と書いている。
 そして、この大磯が大いに気に入った。
「その地勢、海潮甚だ優れり」
「海底清潔にして汚泥ならず。また、方向は南西を好しとするなり」(『海水浴概説』)
 順は海水が皮膚にどのような影響をあたえるか、風向きによってバクテリアがどう変化するか、生物の生態はどうか、波の力や形などの基準をつくって大磯が海水浴に適していることを調査確認したという。
 順は大磯の明るく煌く太陽と青い空と真っ白な雲と澄んだ紺碧の海に身体も心もいやされて、人々がはちきれそうな健康のよろこびを満喫できると考えたのだ。
 そして、順は泊まっていた旅館・百足屋(現存しない)の主人の宮代謙吉(のちに大磯町長)に海水浴がどんなに健康によいかを説くと、謙吉もこれに共鳴して海水浴場開設に奔走した。
 余談だが、京都に同志社大学を創立した新島襄が亡くなったのはこの百足屋の松林の梢越しに相模湾を望見できる高台にあった別館の愛松園であった。


いずみ・ひでき
昭和18年静岡県浜松市生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者・編集者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書は『海の往還記』(中央公論新社)『東海道の城を歩く』(立風書房)など多数。
ご意見・ご感想などは
hidekist@f4.dion.ne.jpまで。



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