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第13回 砂と戦った越後屋太郎右衛門
●先駆者と協力者と後継者●
文/撮影 泉秀樹



 能代(秋田県能代市)清助【せいすけ】町で回船問屋を営む越後屋(渡辺)太郎右衛門が佐竹藩の許可をとって砂浜に長さ14丈(42m)の丸太を打ち込み、丸太と丸太の間に簀を張った簀垣【すがき】を作って砂止め普請にとりかかったのは正徳元年(1711)11月であった。
 まず清助町後【せいすけまちうしろ】に簀垣を立てた太郎右衛門はさらに二重三重に柴垣で囲いをつくった。そこに町中から集めた屑芥やコウボウムギ、ボウフウ、ハマエンドウなどの草の実を撒き、さらに茱萸【しゆゆ】、柳、松などの苗を植えた。それらの植物が根づいて成長するのを待つ気の長いプロジェクトの、これが第一歩であった。
 簀垣の長さは場所によって300間(540m)あるいは500間(900m)もあり、この砂防工事に関する費用は太郎右衛門が「自分物入」【じぶんのものいり】(自費)で行った。藩は補助的に資金援助と人夫を貸与しようといったがこれを断り、太郎右衛門は工事を開始した翌年の正徳2年(1712)から享保18年(1733)までに銀31貫余、その翌年から寛政年間(1789〜1801)までに銀12貫余を投入することになる。

 能代は白神山地(世界遺産)の南麓を日本海に向かって流れる米代川の河口の両岸に発達した町である。
 米代川の上・中流域は秋田杉(能代杉)の名産地として知られ、山々で伐採された杉の巨木は筏に組まれて能代まで下された。
 能代で製材された杉は船で新潟、宮腰や敦賀や小浜をはじめ萩など日本海側の主要な港や九州や上方へと運ばれていった。米代川は能代の流通と経済の発展に重要な役割を果たしてきたのである。
 が、米代川は今ひとつまことに困ったものも運んできた。砂である。
 砂は上流から流れに混じって川下へ下り、少しずつ、少しずつ押し出されて長時間のあいだに河口一帯に堆積し、海に沿う幅広い砂浜を形づくった。海岸部が波のうねりのような無数の起伏のある砂丘に変貌していったのである。そしてこの砂浜は毎年、秋の終わりから冬、春先まで日本海からごうごうと吹きつのる風(季節風)に表層を吹き飛ばされて生きもののように形を変えながら能代を浸蝕した。

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写真左:太郎右衛門が植えた松。樹齢200年(推定)で『風の松原』では最も古い木だ。
写真右:太郎右衛門が最初に植樹をはじめた清助町。

 越後屋太郎右衛門は能代から二里ほど(約8km)米代川をさかのぼった川湊の鶴形(能代市鶴形)で回船問屋を営んでいた。杉をはじめ、内陸部の阿仁から産出される銀、銅、鉛などを先に述べた日本海の港々や上方方面へ運び、帰りには衣類や塩、綿や紙などを積んで帰ってきていた。
 やがて四代を経て五代・太郎右衛門が鶴形から能代・清助町に拠点を移した。
 米代川は清助町下が最も深くなっていて吃水船の深い大きな船の接岸に好都合であったことと、越後屋が領主である佐竹氏の信頼を得ていたことを考えると、商売の規模が大きく成長していたということだろう。
 そして冒頭に述べたように六代・太郎右衛門が砂止め普請に挑むことになった。
 最初に簀垣を立てるまでの経緯は「右余勢を以乍不及自分物入ニ而普請出仕度奉申上候処、願之通被仰付、難有仕合奉存候」【みぎのよせいをもっておよばずながらじぶんのものいりにてふしんいたしたくもうしあげたてまつりそうろうところ、ねがいのとうりおうせつけられ、ありがたきしあわせにぞんじたてまつりそうろう】(回船問屋で利益をあげることができましたので、)その余勢を駆って及ばずながら自費で砂止め普請をしたいと藩に申し出たところ、工事をせよとお申しつけいただきまして、たいへんありがたいことだと思っています、という。
 また、正徳2年(1712)からは庄屋・越前屋(村井)久右衛門も砂止め普請に加わることになった。2人で清助町後の砂止めと平行して後谷地にも砂防林を設けることにしたのである。これも「後谷地之儀は広大之場所にして迚も壱人にてハ無覚束候間、越前屋久右衛門を相加へ両人ニ被仰付被下度」【うしろやちのぎはこうだいのばしょにしてとてもいちにんにてはおぼつかなくそうろう、えちぜんやきゅうえもんをあいくわえりょうにんにおおせつけくだされたく】(『後谷地砂留一件書留』)という。
 太郎右衛門と久右衛門は清助町後で試みたようにここでも14丈の丸太を次々と打ち込んで簀垣を立てた。が、飛砂はそれらを簡単に呑みこんだ。次にあちこちに柴垣を立て、町中から集めた屑芥を埋め、2重3重に高垣を立てた。しかし、これも吹き飛ばされたり砂に埋もれたりして4回も5回も簀垣を立て、草の種をまきなおさなければならなかった年もあった。

k07-6 第16代・越後屋太郎右衛門夫妻。
現在はお菓子屋さんだ。

 数年後にやっと草が根づき、そこで茱萸や柳を植え、明和年間(1764〜72)から松を植えた。
 太郎右衛門と久右衛門は正徳3年(1713)から明和元年までに銀35貫と銭300貫余(茱萸と柳の植立て料)、明和3年(1766)から寛政年間(1789〜1801)までに570貫文(松苗代と植立て代)を支出した。
 これに対して藩は育っていく松の林を見守るための屋敷地をあたえ、砂止めが成功して松が成長したらその半分をあたえる約束をした。藩庁は他人のフンドシで相撲をとってイイ気なものである。
 2人が植えた木は文化11年(1814)には松2113本、槻370、柳580、槐67、合歓2500にのぼった。
 ところが、天保5年(1834)これらの木がすべて伐採されるという事件が起こった。飢饉で困窮した人々が焚く火のためにせっかく植栽したおびただしい木々が伐られ、2人がもらうはずの木の取り分も困窮した人々にあたえられてしまった。
 しかし2人は挫けなかった。3年後の天保8年(1837)に2人は伐採跡地に松苗9600本、同9年にも3020本を植えて砂と戦いつづけた。
 2人はさらに盤若野【はんにゃの】の植樹も行った。

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k07-2 上:『秋田街道絵巻』(作=伝・荻津勝孝/秋田市立千秋美術館蔵)に描かれた能代。町々が木々に包み守られている。
中:能代の町方から出された太郎右衛門と久右衛門の功績を顕彰してほしいという口上書。
左:能代港。左手が『風の松原』

 藩庁が本格的に腰をあげたのはようやく文政4年(1821)になって以後のことである。
 賀藤景林【かとうけいりん】(清右衛門)が木山方吟味役【きやまかたぎんみやく】として頻繁に能代を訪れるようになり、文政5年(1822)から松80万本の植栽がはじまった。
 工事費は藩が負担し、2人は「植立係」【うえたてがかり】を担当した。そして天保4年(1833)までの12年間に67万9000本余を植栽し、さらに同9年までに14万3000余木が植えられ、うち2人が30万本を植え立てた。植樹はその後もつづけられ、景林のあとに栗田定之丞も強力に植樹策を推し進めた。ほかにも多くの協力者や後継者が凶暴な飛砂と戦った。
 白坂新九郎、鈴木助七郎、吉田貞蔵、中田安五郎(以上・武士)や庄屋の原田五右衛門(浅内)、大塚甚十郎(旧大内田)、銭谷庄蔵(峰浜村)、内田屋与八郎(能代)などであり、それらの協力者や後継者が植えた松は、いま、能代市を中心に南北14kmつづく700万本といわれる黒松林の名勝「風の松原」として残っている。
 そして、賀藤景林は「景林神社」(能代市日和山)に、栗田定之丞は「栗田神社」(秋田市新屋)に祀られ、その業績を顕彰されている。
 だが、先駆者である越後屋太郎右衛門と越前屋久右衛門の業績はまったく顕彰されていない。
 「官」が「民」のために何事かをなすのは当然である。しかし「民」が「民」のために「官」から許可をとって、そのうえ私財を投げ打って何事かをなすのは容易ではない。その無私の発想、自己犠牲をいとわない奉仕の精神はきわめて嵩高であったというべきであろう。いまなお秋田県や能代市の「官」関係者は2人の先駆者の業績についてなにも考えていないのだろうか。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書は『東海道の城を歩く』(立風書房)『戦国街道を歩く』『日本名産事典』(日本図書センター)など多数。
ご意見・ご感想などは
hidekist@f4.dion.ne.jpまで。



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