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第14回 財政再建の王道
●改革の正統【オーソドックス】な手法を選んだ河井寸翁●
文/撮影 泉秀樹


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寸翁像

 徳川幕府の基礎は家康・秀忠・家光三代で築かれたが、五代・綱吉の時代になると税収が増えないまま政権運営の出費がかさむことになって、早くも幕府の財政は破綻しはじめた。
 綱吉は経済を知らず、まことに安直に金の含有量が多い良貨に銀、銅、錫などを混ぜて流通させたから、たちまちのうちに物価の高騰を招いて、いっそう幕府財政は圧迫されることになった。八代将軍・吉宗がひたすら引き締めをはかってやや力をとりもどしたが、それは幕府の収入が増えただけのことで、諸国の大名や庶民にはなんの利益もなかった。
 そして、さらに文化・文政のころになると、庶民も諸藩も窮乏の一途をたどることになっていた。日本全体が景気の底割れ状態から脱出できないまま対応策を模索するばかりだったのである。
 そうした先行き不透明な暗い経済状況下の文化5年(1808)12月1日、姫路藩家老・河井寸翁は藩主・酒井忠道の命で諸方勝手向の役職に就くことになった。藩債73万両余をかかえた忠道は苦労のあまり病に倒れ、弟・忠実を代理に立てなければならない有様だった。
「公私御借財73万余金に及び、日用の儀さえ必至と御差閊えの処」(『寸翁退隠願之書』)とか「数年来の御不如意、よろず意に任せられず…(中略)…内外共未だ御行たち無之」(『御国用積銀御仕法書』)という。
 徳川幕府に最も近い親藩である酒井諸家の宗家である酒井の殿様が「日用の儀さえ」ままならない困窮の底にあったということで、41歳の寸翁が負わされた責任は重大だった。

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写真左:姫路城。世界遺産の美しさ! 写真右:寸翁の墓(姫路市四御町東阿保)

 河合寸翁は明和4年(1767)5月24日、姫路城の中御門内の侍屋敷で生まれた。父は姫路藩家老の一人である宗見、母は長野氏である。
 寸翁は幼少時から利発をもって知られ、11歳から藩主・酒井忠以の命令で出仕しはじめた。
 17歳で年寄見習を命じられ、天明7年(1787)21歳のとき父・宗見が病死したので家督千石を相続し、家老席に就任した。
 以後は目立った働きはしていないが、先に述べた通り41歳のとき江戸にいた忠道に呼び寄せられ財政改革に正面から取り組むことになったのである。
 手はじめに寸翁は倹約令を施行した。
 3年間の徹底した質素倹約の励行であり、具体的には音信贈答をひかえ、綿服を着、年忌法事は一汁一菜、慶事は肴一品にせよと命じ、士風や百姓町人の生活に引締めを求めた。
 次に領内各地の2ヵ村にひとつくらいの割合で「固寧倉」を設けた。凶作や水害などの災害のときに備えて種穀をたくわえておく倉庫をつくり、何事もないときは各地の「固寧倉」に蓄えてある米や麦の1部を貸与して農業の基礎を確保しておき、農民に安心して農業に専念させようというアイデアである。
 こうして足もとをしっかり固めて人心を安定させた寸翁は、藩の名産品である「姫路木綿」の増産と販売に力をそそいだ。それも江戸における木綿の専売権を獲得して売ったから、莫大な利益をあげた。
 が、この「姫路木綿」専売によって利益をあげるに至った経緯の前置きを説明する必要があるだろう。
 その前置きとは文政5年(1822)に十一代将軍・家斉の25女・喜代姫と姫路藩主の嫡子・忠学の婚約が成立したことである。
 この婚約を成立させるため、寸翁は一橋家に近づいて馬好きの当主に名馬を献上するなどして口添えを願った。政略結婚の根回しをしたのだが、その結果、天保3年(1831)3月、喜代姫はめでたく酒井家に嫁いできた。
 寸翁は酒井家の家格をあげることに成功した功績をもって上席家老に任じられ、家禄は五千石に加増された。
 これが前置きであり「姫路木綿」専売権獲得の背景なのだが、とにかく寸翁は領内の加古川の近くで栽培されている木綿が良質であることに目をつけた。
 布を織る技術も秀れていて「姫路木綿」は薄地でやわらかく、白さも際立っており「姫玉」とか「玉川晒」と呼ばれて江戸から奥州に至る広い地域で好評を博していたのである。
 が、問題は流通だった。
 大坂の問屋が介在して仕入れのとき買い叩いたりかなりの中間利益を抜いたりしていた。これに対して寸翁は大坂の問屋を外して直接江戸表で木綿を売り捌くことにした。それも国許では藩札を使用し、江戸で正金銀に換算して決済させたから、藩札の信用が高くなると同時に利益も急激にふくれあがった。
 江戸藩邸には木綿だけで年24万両余の正金銀が入るようになって、専売開始から7、8年で73万両余もあった藩債も完済することができた。
 しかし、これを他藩が黙って見ているわけがなかった。天保2年(1831)ごろから木綿専売権割込みの申請がつづいた。姫路藩だけがいい思いをしていることを不公平だと考えるのが当然であった。
 この問題を管轄する江戸町奉行は頭をかかえたが、ここで先に述べた前置きが効を奏した。
 寸翁は木綿からあがった利益は酒井家に嫁いだ将軍・家斉の25女・喜代姫の化粧料にあてていると抗弁して他藩の権利割込みをおさえこんでしまったのだ。改革にはこうした強引さも必要であり、寸翁はさらに同様の方法で皮革、竜山石、塩、鉄製品なども藩の専売特産品にしていったのである。

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写真左:仁寿山の麓に仁寿山校跡の土塀が残っているが、訪れる人はきわめて少ない(姫路市兼田)
写真右:「固寧倉」は「民はこれ邦(くに)の本(もと)、本固(かた)ければ邦寧(やす)し」(『書経』)からとられた(姫路市白浜)

 まず上下ともに聖域なき質素倹約を強いながら、商業と金融の利ざやによって利益をあげる一方、寸翁は新田開発による生産力の増大をはかった。
 海岸沿いの遠浅で干拓しやすい中島の庄助新田や相生新田、広畑の新鶴場新田、妻鹿・白浜の太佐新田など三千ヘクタールを開発し、この部分は税も軽くして米を九千トンも増収できるようにした。他にも有力商人や庄屋に請け負わせて新田を開いたり桑を栽培させたりして藩経済の基礎を着実に強化していった。
 また「飾磨の湛保」(飾磨港)が開かれたのもこのころだった。東西120メートル、南北150メートル、満潮時の水深3.6メートルという大型外洋船が出入りできる港で、川や運河を利用して姫路藩内陸部と大坂、江戸が直接結ばれことになったから大いに賑わった。
 寸翁はさらに人材の教育・養成に取り組んだ。
 姫路の市街地の東南にある仁寿山の麓に私立学校・仁寿山校を創立した。私立といっても南北書院、書庫、教師宅、炊事場、医学寮などを備え、150人ほどが塾舎生活を送りながら文科系の学問だけでなく武道や医学までを学ぶ総合大学のような学校である。

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写真左:木綿を藩札で支払っていた『御切手会所跡』は銀行になっている(姫路市綿町)
写真右:姫路城内にある姫路神社に合祀されている寸翁神社

 教師には頼山陽、松本奎堂、菅茶山、林述斎などの有名な学者を招いたのをはじめ、当代一流の教授陣をそろえた。人材養成には時間と金がかかるが、寸翁は次の世代のためにここで本当に経世済民のために働くエリートを育てようとしたのである。
 これらの財政再建策、産業・教育振興だけに止まらず、寸翁は藩財政と領民の生活を安定させるために一般から集めた金を蓄えておく「御国用積銀制度」を施行したり、瀬戸内海の重要な港であった室津(兵庫県御津町)に藩が出資して「室津銀元会所」(金融機関)を設けて民間人に経営させたり、庭のある者に桑の木を7株ずつ植えさせて絹織物の下地をつくったり陶磁器を焼かせるなどなど、忠以、忠道、忠実、忠学の4代の藩主に仕えながら大胆かつ細心に骨太な改革案を実行し、経済の足腰を強くして政治、教育、文化に大きな実績をあげた。
 天保6年(1835)3月、69歳でようやく致仕(退役)がゆるされたが、その生涯は財政再建に取り組むことからはじまった正統な手法による総合的な改革にささげられていた。革命的な改革は、真正面から問題に取り組む王道を一歩々々手堅く歩いて行ってはじめて成しとげられることを、いみじくも寸翁の一生が証明しているようだ。
 寸翁は天保12年(1841)6月24日に没。享年75歳であった。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書は『東海道の城を歩く』(立風書房)『戦国街道を歩く』『日本名産事典』(日本図書センター)など多数。
ご意見・ご感想などは
hidekist@f4.dion.ne.jpまで。



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