bannerkoramu.gif


第15回 紀州経済官僚・伊達宗広の大志
●派閥型官僚からの飛躍●
文/撮影 泉秀樹


k11-01
晩年の伊達宗広

 伊達宗広(藤五郎・千広)は享和2年(1802)5月25日、和歌山藩士・宇佐見祐長の次男として生まれた。生まれて間もなく藩の参政であった叔父・盛明(300石)の養子となり、12歳のとき伊達家を継いで寄合に任じられ、文化13年(1816)14歳で十代藩主・治宝(はるとみ)の小姓となった。つづいて目付勘定吟味役小普請支配となり、文政6年(1830)28歳で精勤を賞せられ、加増を受けて500石取りになった。
 「俊敏、隼(はやぶさ)の如き奇才」といわれたというから頭の回転の速度が並外れていたのだろう。
 宗広はつづいて熊野三山寄附金貸付方・有司惣括、大番頭格に任じられ、嘉永3年(1850)7月には勘定奉行と大番頭を兼務することになり、48歳で800石を給せられた。
 その駆け登るような出世の理由は小姓として藩主・治宝の側にいて愛されて信頼が厚かったことと、家老・山中俊信に引き立てられたからである。妻が病死して御側御用取次・渥美源五郎の女・政と再婚したことも地位を押しあげる有利な条件になった。
 人脈を得た順風満帆の人生であり、幕藩制度下の典型的な派閥型官僚であった。

 紀州・徳川家は御三家のひとつではあったが、御多聞にもれずその財政は窮迫していた。領地は大部分が山林で耕作地は少なく、たび重なる飢饉に民百姓は難儀し、一揆も頻発していた。
 こうした状況下の文政7年(1823)6月、治宝は54歳で家督を婿養子・斉順(なりゆき/十一代将軍・家斉の七男)に譲った。が、完全に引退したのではなく、背後から実効支配しようとし、宗広はこれを山中俊信や渥美源五郎らとともに補佐した。治宝が斉順の次の十二代斉彊(なりかつ)、十三代慶福(よしとみ)に至るまで権勢を維持できたのはこの3人の力による。
 宗広はまず御仕入方を整備拡張した。
 御仕入方は各地の産物を買いあげて諸国に販売する。和歌浦(わかのうら/和歌山湊)に御仕入役所を設け、大坂、江戸に出張所を置いていた。これが衰微していたので宗広は近江、京都、伊勢、美濃にも出張所を置いて紀州名産の木材、木炭、蜜柑、酒、醤油、紙、蝋燭などを売らせて大いに利益をあげた。
 御仕入方の利益は治宝の意思によって動かされていた。「密御用」と称する秘密の命令よって「利殖融通」を行っていた。さらに御仕入方は三井家と組んで長崎貿易に投資して裏の利益をあげるようになった。
 宗広はまた紀ノ川沿岸の木綿畑にも着目した。縞地の八丈織を織らせて上方一帯に華々しく売出したのである。
 当時人気絶頂だった尾上多見蔵が座頭をつとめる大坂・角座を買切り、多見蔵演じる海賊が難破して大岩に漂着して大台詞とともに見栄をきる場面に「によいと日の出の紀ノ川に晒(さら)しあげたる黄八丈」という文句を入れさせた。衣装はもちろん八丈織りで、茶屋の男女、座方にも全員これを着せた。
 その夜は役者連中を住吉の三文字茶屋によんで芸者衆も総あげし、すべて八丈織を着せて大騒ぎした。
 招待された商人たちをはじめ、呉服屋という呉服屋が翌日から大坂にある紀州藩蔵屋敷におしよせた。八丈織は残らず売切れて人気商品となり、さらにこれが後年和歌山の名産のネルに成長していった。
 当代の人気俳優を利用して八丈織をブレークさせた企画力は高く評価できる。

k11-02
和歌山城・京橋門。堀は紀の川の河口に隣接する港に直接つながっていた。堀に沿ってならぶ蔵は商人たちの力をあらわしている。

 熊野三山寄附金貸付は八代将軍・吉宗が享保21年(1736)に古代から信仰を集める熊野本宮大社(和歌山県東牟婁〈ひがしむろ〉郡本宮町)と熊野速玉(はやたま)大社(新宮市)と那智大社(東牟婁郡那智勝浦町)の三山の修理費として2千両を寄進したことにはじまる。この2千両を三山造営に名を借りた藩営の金融業の元手にしたのである。一般からの差加金(さしくわえきん/預金)も集め、幕府の許可を得て万石以上の大名や有名社寺に大規模な貸付けを行った。富くじを売出した利益などなど合わせて資金をストックして10万両までの貸付けを行ったのである。
 とにかく幕府の許可と御三家の権力があり、熊野三山がついている。これ以上大きな信用は他にはない。差加金もどんどん集まり、安政2年(1855)には最高貸出し額10万両までという枠も取り払われて自由に貸付けできるようになった。そして文政11年(1828)11月には資本金10万両で江戸の藩邸に「三山貸付所」が設立された。つづいて京大坂、奈良、堺にも出張所を置いた。
 熊野三山の社家惣代・玉置縫殿(たまおきぬい)が奔走したのだったが、宗広と組んでやった仕事であることはいうまでもない。やがては総貸付金の元利高65万5千4百72両(明治4年・1871)という巨大な金融機関に成長していった。
 宗広は経済官僚としてこうした手腕を発揮して本来ならば藩の財政再建を達成し、大層な利益をあげることもできたはずだった。

 弘化3年(1846)閏5月、斉順(なりゆき)が46歳で急死し、前将軍・家斉の二十一男で御三家のひとつである清水家の養子となっていた斉彊(なりかつ)が27歳で紀州十二代藩主に就任したが、わずか3年後の嘉永2年(1849)正月に病に倒れ、3月には死去してしまった。
 同年閏4月、斉彊の養子でわずか4歳の慶福が十三代当主になった。慶福は斉順の子で、斉順没後16日後に生まれた子供である。年老いた治宝はいやでも藩経営をつづけなければならなかった。
 さらに3年後の嘉永5年(1852)9月25日、家老・中山俊信が亡くなった。治宝は右腕を失い、渥美源五郎も宗広も強力なリーダーを失って大きな打撃を受けた。間もなく治宝自身も病床に倒れ、同年12月7日に没した。
 治宝が亡くなって5日後の12月12日、宗広は突然蟄居閉門を命じられ、その10日後の22日には改易処分されて田辺(和歌山県田辺市)に送られた。
 かねてから治宝、山中俊信、渥美源五郎、そして宗広らと敵対派閥をつくっていた江戸の付家老・水野忠央(ただなか)が巻き返しに出て粛清を開始したのである。
 忠央はただちに御仕入方と熊野三山寄附貸付所をおさえた。政治資金を確保するためである。
 紀州の金のなる木を手にいれた忠央は江戸で井伊直弼と手を組んで「南紀派」として水戸斉昭を中心とする「一橋派」を蹴落として幼い慶福を十四代将軍に就任させた。これが家茂である。だが「安政の大獄」をひきおこした井伊直弼が桜田門外で暗殺されると忠央も失脚し、新宮に逼塞(ひっそく)することになる。
 宗広が和歌山へもどったのは文久元年(1861)6月のことである。

k11-03 写真上:和歌山城

写真下左:外堀であり港であった区域から和歌山城遠望。紀の川と併行している。

写真下右:納屋河岸跡。このあたりは和歌山城下で最もにぎわっていた通りである。

 八代藩主・重倫の30回忌にちなむ恩赦で幽閉をゆるされたのだが、10年近い幽閉生活で歳はすでに60を迎えていた。改めて大番格をもって小普請入り、7人扶持という身分があたえられ、宗広は城下外れの大田村に「天目庵」と称する小さな家を構えて藩士たちに和歌や仏教を教えて過ごした。
 が、幽閉されている間に宗広は大きく成長していた。文久2年(1862)宗広は養子・五郎とともに脱藩して京に上り、粟田口に住んで公卿の姉小路公知らと交際し、勤皇の士としてその名を知られるようになっていった。
 また、宗広は『大勢三転考』を著した。日本の歴史が「骨(かばね)」(推古天皇)と「職(つかえ)」(聖徳太子から鎌倉幕府成立まで)と「名(みょう)」(鎌倉時代以降)と段階的に成長してきたことを俯瞰した著作である。つまり宗広は天皇を中心にした時代が来ることを予見してその基本になる思想理論を築きあげていたということだ。いつしか派閥型の地方官僚が天下国家を変える源動力そのものに成長していたともいえる。
 先妻が生んだ六男も優秀で、宗広の思想を学びながら成長し、坂本龍馬や桂小五郎たちとともに行動した。その六男がのちの陸奥宗光である。
 宗広は明治10年(1877)5月8日に75歳で没した。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書は『東海道の城を歩く』(立風書房)『戦国街道を歩く』『日本名産事典』(日本図書センター)など多数。
ご意見・ご感想などは
hidekist@f4.dion.ne.jpまで。



バックナンバーへ戻るspacer新風トップへ