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第16回 プロジェクトリーダーの魅力
●是不名利偏為饒益也●
【これみょうりならずひとえににようやくのためなり】
文/撮影 泉秀樹



 狭山池(大阪狭山市)は日本最古のダム式溜池である。
 造成されたのは推古214年(616)と算出されている。平成6年に発掘された木製の樋管【ひかん】(東樋)を年輪年代測定したところ、616年の春から夏にかけて伐採された木の材木であることが判明したのである。聖徳太子が十七条の憲法をつくったのが推古12年(604)だから、それから12年後にあたる。現在から約1400年前のことだ。
 推古天皇の国家的なプロジェクトであったこの狭山池造成の目的はいうまでもなく農業用水の安定確保である。
 広大な下流域に生活する人々の生活はこの狭山池の造成と放水・取水を樋(取水口・放水口)で調節することによってどれほど大きな恩恵を受けたか計り知れない。人体にたとえればまさに農地に血液を送り出す心臓である。
 同時に狭山池造成はまだ強固ではなかった天皇を中心とする体制を強化し、国家としての形を整えてゆく時期の農業=経済を支える日本最古にして最大規模のインフラの整備であったともいえるだろう。

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狭山池

 だが、100年も経てば堰堤【えんてい】の盛土がゆるんで土中に埋めた木製の放水・取水口や樋は腐ってしまう。それに下流域も開発しつくされて人口が増え、集落が大きくなっていったり新たな土地を開拓するための水の需要も急増していたからこれに対応するメンテナンスが必要になる。
 最初のメンテナンスは行基【ぎょうき】が行った。
 行基は天智8年(668)15歳で出家して飛鳥寺(元興寺)に入り、37歳くらいから和泉・家原寺を根拠地として仏教をひろめながら社会事業を行った。平城京をつくるときは徴発された農民や各地から庸・調を運んでくる農民の宿泊施設「布施屋」を設けたり橋や灌漑池・渠溝【クリーク】や橋も造営したという。
 そして弟子(技術者集団)を指揮して人々のためにつくす行基を尊敬し、信頼する者たちが大きな宗教団体を形成するようになっていった。
 これは政府にとっては好ましいことではなかった。生まれたばかりの律令国家・中央集権体制と対立する勢力に成長するおそれがあったからで、彼らは行基を「行基小僧」と呼んで敵視し、その活動を封じるために弾圧を加えた。
 しかし律令国家は行基の人々を惹きつけるカリスマ的な指導力を認めざるを得なくなって養老7年(723)には逆に行基に狭山池改修について協力を求めた。
 行基は狭山池の堰堤を改修し、天平3年(731)には狭山池院と尼院を建立した(現存しない)。
 さらに行基は天平15年(743)には奈良の大仏(東大寺の廬遮那仏【るしゃなぶつ】)造営の勧進役に任じられ、その6年後には大僧正となって大仏を完成させた。
 人々は行基を「行基菩薩」と呼び、常に1000人を超える人々が追従していたという。そうした信者たちが狭山池改修にも大仏造営にも親密な奉仕者、協力者となったのである。
 協力者たちの明るく力強い息づかいが聞こえてくるような行基の改修につづいて天平宝字6年(762)にも改修が行われた。国の事業として8万3千人が動員され(『続日本紀』)堰堤は3m高い9・5mに、底幅が27mから54mに拡張された。
 改修前と比較すると池面積約35万平方m、最大貯水量約170万立方mとなり、約2倍の能力を持つことになった。
 そして引仁8年(817)にも僧・勤操【かんろく】による改修が行われて狭山池は畿内におけるさらに安定した農業経済の太い支柱となった。

k01_02 写真上左:狭山池が潤している範囲の模型。

写真上右:狭山池古図。

写真下左:木製枠工。堤が地すべりによって崩れるのを防ぐ。

写真下右:周囲の古墳から掘り出した石棺の両端を削りとって樋に使用した。重源は宗教家であったが、実に合理主義者でもあったということがわかる。

 次は俊乗房重源【ちょうげん】の改修である。
 建仁2年(1202)摂津、河内、和泉の50余郷の人々の要請で82歳の重源は「造唐人」と呼ばれる宋人の技術者集団を使って工事を進めた。
 平成の改修のとき池中から発見された石碑に「道俗男女沙弥少児乞●非人等、自手引石築堤」【どうぞくなんにょしやみしようにきつかいひにんなどみずからのてでいしをひきてつつみをきずく】と彫られている。
 僧侶や一般人、男女を問わず沙弥、小児、乞食、そして当時差別されていた非人などが力を合わせ、みずからの手で石を引いて堤を築いた。ここでもボランティアとして働いている人々や人夫たちの元気な掛声が聞こえてくるようだ。
 行基のときと同じで重源を尊敬信頼して募っていた者が数えきれないほど多かったことがわかる。重源にもカリスマ性と魅力がそなわっていたのだ。
 このときから21年前、61歳であった重源は東大寺復興の大勧進に任じられた。源平の争乱で平重衡【しげひら】が放火したため大仏殿が炎上、大仏も焼け熔けてしまったのだったが、宋人・陳和卿【ちんなさい】とその技術集団を使ってわずか4年で開眼供養にこぎつけた。
 重源は西日本各地に「別所」(東大寺の地方事務所兼福祉施設)を設けて勧進(募金活動)を行ったり、西行を訪ねて東国へ赴いて金をもらってきてほしいと依頼したりした。
 西行は鎌倉へ赴いて頼朝に米1万石、砂金1千両を出させた。西行はさらに奥州・平泉まで足をのばして藤原秀衡【ひでひら】に大仏を渡金するための膨大な量にのぼる砂金を出させた。
 こうした実績のある重源に支配者も庶民も懸命に協力した結果、狭山池は池面積約37万平方m、最大貯水量約174立方mとなり、初期に比べると池面積が11万平方m大きくなり、最大貯水量は2倍以上になっている。
 さらに時代が下って慶長13年(1608)豊臣秀頼の家臣・片桐且元【かつもと】が改修してこれを飛躍的に大きくした。池面積約51万平方m、最大貯水量約250万立方m、初期と比較すると池面積は2倍弱、最大貯水量は3倍強になった。灌漑面積は推定4千2百ヘクタール、80か村にのぼった。これは戦国の築城技術があったからだろう。
 大正・昭和・平成の改修を経て現在は池面積が天平宝字の改修後に近い約36万平方mである。ただし、最大貯水量は約280万立方mで初期の約2・15倍、最大の貯水量を誇る。
 先の池中から出てきた碑に「是不名利偏為饒益也【これみょうりならずひとえににようやくのためなり】」と刻みこまれている。名声や利益のためではなく、みんなが公益のために改修工事を行ったという。
 プロジェクト・リーダーであった行基や重源のありかたに素晴らしい魅力があったからにちがいない。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書は『東海道の城を歩く』(立風書房)『戦国街道を歩く』『日本名産事典』(日本図書センター)など多数。
ご意見・ご感想などは
hidekist@f4.dion.ne.jpまで。



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