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第17回 「官」と「民」の協力
●前田正甫のみごとな殿様商売●
文/撮影 泉秀樹



 前田正甫【まさとし】(1649〜1706)は加賀百万石の基礎を固めた前田利家の長男・利長の長男・利常の次男・利次の長男として生まれた。その正甫が急死した父の跡を継いで富山藩・二代藩主に就任したのは延宝2年(1674)26歳のときである。
 この年の秋は大雨で米作が害され、以後天和元年(1681)まで7年間にわたって天災がつづいた。加えて同年7月には幕命で越後・高田城の接収に七万石格の軍役をもって出陣しなければならなかった。正甫は城下の豪商・吉野家慶寿に1万3千両を拠出させてこれをしのいだ。さらに延宝3年(1675)3月の大火で千数百戸と城が焼け、4月にも数百戸が火災に遭った。富山の春先はフェーン現象によって火事が多発していたのである。二代目の当主・利長の慶長14年(1609)3月には富山城は全焼している。
 藩の人口構成にも問題があった。65%の農・商が31%以上もいる武士を養う比率になっていたからだ。
 とにかく富山には神通川をはじめとする急流が多く梅雨どきや台風の時季にはのべつ洪水に見舞われており、正甫は経済的な基盤がきわめて脆弱で災害の多い貧乏国を相続しなければならなかったのである。
 正甫が薬種商・松井屋源右衛門(1645〜1717)がともなってきた医師・万代常閑【まんだいじょうかん】(?〜1712)を引見したのは天和3年(1683)である。目通りをした経緯は不明だが、この出会いがまもなく大きな成果を生み出すことになる。
 源右衛門は慶長年間(1596〜61)から薬種業を営んで三代になっていた。21歳の若さで町年寄になったというから経営能力も人望も兼ね備え、間口11間半という大店を構えて藩の製薬指導役人のような立場にあった。
 常閑(十一代)は備前国和気【わけ】郡益原村(岡山県和気郡和気町)出身で岡山藩主・池田綱政の信任が厚かった。常閑は源右衛門と親戚関係にあった。
 源右衛門は創業したころから京都、大坂、岡山などに越中の薬種を売り、上方から薬種を仕入れて帰る営業をつづけていたし、薬の販売に強い八重崎屋源六を雇っていた。源六は行商に出るたびに岡山の常閑を訪ねて越中の黄蓮や熊胆【くまのい】を届けていた。
 正甫と常閑と源右衛門と源六。
 この4人が新しいビジネスをつくり出した。

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 正甫に目通りしたとき常閑は「反魂丹【はんごんたん】」(紫霊丹・麝香丸)を献上した。正甫は自分が病弱であったこともあって調薬に凝っていたからすぐさま反魂丹の製法を常閑から習うことにした。
 「反魂丹」は常閑が発明した薬ではなくもともと足利将軍家の持薬で江戸・柳原敬心院でも売っていた。木香(健胃・整腸)、陳皮(健胃・鎮嘔)、大黄(健胃・緩下)、黄蓮(腹痛・下痢)、熊胆(鎮痛・胆汁分泌促進)を主成分とする消化器と霍乱・鎮痛の薬で、これをつくるために正甫は毎日のように松井屋源右衛門宅を訪れて研究にいそしんだという。
 富山は古くから薬草の産地として知られていた。天平18年(746)万葉歌人として名高い大伴家持が国司として越中(富山)へ赴任したときこの国の「調」(土地の産物を納める税)は紙と薬草であったことからもわかる。
 また、奈良末期以降、船に乗って筑紫に向かう渤海【ぼっかい】(中国東北部)の使者が風波によって難破してたびたび越中に漂着したが、このとき行なった交易の場で彼らは朝鮮人参や白附子、蜂蜜、そして動物の角、内臓を使う薬の製造も伝えていたといわれる。
 山岳宗教が盛んになった平安時代には立山の麓に芦峅【あしくら】寺、岩峅【いわくら】寺の修験者や山伏たちが薬を売りながら全国を流浪して立山の護符をくばりながら立山信仰と立山参詣をすすめ歩いた。つまり薬は布教宣伝活動に使うツールとして大いに利用されていたのである。
 このような富山の伝統を基礎としてやがて「反魂丹」の生産・販売体制を整えると、正甫は修験者や山伏の配薬を禁じ、商人だけに売薬を許した。それも諸国へ行商に出てよい「他領商売勝手」である。
 これ以前に正甫は京都の青貝細工師・杣田【そまだ】清輔に41俵をあたえて富山に招致していたから印籠をつくらせ、それを諸大名に贈って売薬人が領内に入って商いをする許可をとった。他国逃散【ちょうさん】(走り百姓)をおそれて農民を土地に縛りつけていた封建制度下にあって農閑期に副収入を得られるこの「他領商売勝手」は画期的な政策だった。
 正甫は紙の薬袋の「越中富山反魂胆」という文字も自分で書いた。源右衛門らはこれを企業イメージ、ロゴにしたのである。
 こうして正甫は薬を預けておいて次に訪れたときに使われた薬の代金を受取り、不足分を補充して古くなった薬は新しい薬と交換する「先用後利」という合理的な置き薬商法を確立させた。
 そして薬を背負った「売薬さん」たちは富山から北陸街道を歩いて近畿や関東や東北へ。飛騨街道(越中街道)を伝って東海地方へ。
 さらに富山湾沿岸に並んでいる四方、東岩瀬、水橋、滑川、新湊から北前船で蝦夷へ、あるいは下関経由で上方、関東、薩摩、琉球へ向かった。
 他国に出た商人たちはやがて各藩に自主的に売薬願い書を出して許可を受けるなどして市場を開拓して日本全国津々浦々、あらゆる路地の奥、辺境の地の果てまで水のように浸透していった。
 文化13年(1816)には「反魂胆役所」も設けられた。半官半民の役所で業者への資金援助、他領でのトラブル解決斡旋、原料の一括購入、製品の検査、商人からの冥加金【みょうがきん】上納の取り仕切りを行うようになった。この役所の管理下にあって幕末期の売薬人は2200を超えた。他藩にはない富山独特の財源で藩財政は大いに潤った。
 「官」と「民」のみごとな協力体制である。

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 「売薬さん」たちは商業活動のすべてを正確に記録した。得意先名、住所、訪問年月日、集金高、置き薬の名前、数量、家族構成、嫁ぎ先、引っ越し先まで書いてある「懸場帳【かげばちょう】」である。
 この懸場帳こそ彼らの最大の財産であった。
 ときには嫁の世話をして仲人をつとめたり、新しい情報をもたらしたり、農作業に出かけて留守になっている家で湯を沸かして待っていたり泊めてもらったり、顧客と親戚か友達のような信頼関係を築きながら「懸場帳」という顧客リストをあらゆるプライベートな情報で埋めていった。したがってそれは売買できる有価証券であり権利書であり実際に借金の担保にもなる貴重な財産であった。
 売薬人の数、売上げ高については天保年間(1830〜44)に1700名で年間5万両、文久年間(1861〜64)には2500名で21万両を売り上げている。オランダの軍艦1隻がこれより前の嘉永のころで3万〜5万両という記録があるから、相当な売上げ高であったことがわかる。
 狼狩りを好み、古銭研究家として知られ、女癖が悪く農民が困窮しているとき神通川で遊ぶ遊覧船をつくらせるなど殿様らしい贅沢もやり放題だったが、正甫は近侍の諌言もよく聞き入れたという。
 現在富山では2438名(平成12年)、全国では28967名が「先用後利」の売薬さんとして働いている。
 正甫の功績は大きく評価されなければならない。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書は『東海道の城を歩く』(立風書房)『戦国街道を歩く』『日本名産事典』(日本図書センター)など多数。
ご意見・ご感想などは
hidekist@f4.dion.ne.jpまで。



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