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第18回 起業家の「目」
●杉線香と安達繁七●
文/撮影 泉秀樹



 朝鮮の百済【くだら】・聖明王が仏像と経論【きょうろん】を日本に贈ったのは西暦538年のことであった(『元興寺縁起』)。欽明天皇が即位する前の年でありこれをもって日本への仏教伝来とされている。
 「香」は熱を加えると芳香を放つ固形香料を指し、沈香、白檀、丁字のような草根木皮系と乳香、安息香などの樹脂、麝香【じゃこう】、竜涎香【りゅうぜんこう】など動物系のものがある。パミール高原のヒンズー族が発見したというこれらの香料がインドにもたらされるとすぐさま仏教にとり入れられた。香の魅力と宗教の神秘性が溶け合ったのである。
 浸透力の強い仏教は次第に中国、韓国、東南アジア一帯に広がって香も同時に諸国に伝わっていった。とくに仏前を清めるために使われた香=供香(そなえこう・ぐこう)は精神にも大きな影響をあたえることになった。人々は立ちくゆる香気につつまれながら敬虔な祈りを捧げるようになったのである。
 奈良時代は香が寺院だけで使用されていた。それも香木をそのまま焚いていた。
 しかし、平安時代に入ると香木の粉を蜂蜜などで練り固めた練香【ねりこう】が考案されて部屋や衣服、髪などに練香を焚きしめる空薫物【からだきもの】が貴族の間に流行した。
 聞香(ぶんこう・もんこう=香をかぎわけること)が生まれたのもこのころで、貴族たちはさまざまな種類の練香を聞きながら香の優劣や香銘に合った匂いであるか否かを競う薫物合【たきものあわせ】という遊びに興じた。香は宮廷文化の華やかないろどりになったのである。
 室町時代になると香は芸術性を帯びるようになった。聞香はただ匂いの優劣を競うのではなく文学的な要素や精神性が重視されるようになった。武士の台頭とともに禅の影響が加わって作法が定められていったのである。たき継香【たきつぎこう】(連歌のルールで遊ぶ)、組香【くみこう】(和歌、物語、自然の風物に託した遊び)が考案されると紫烟のなかから幽玄の世界が生まれ、足利義政を中心とする三条西実隆【さねたか】、志野宗信たちによって「香道」が確立し、茶道・華道とともに日本文化を形作ってゆくことになった。
 さらに応仁の乱が終って戦国時代に入ると戦乱の副産物として安土・桃山文化が生まれた。戦国武将たちは戦乱で疲れた心身を茶でいやし、香に安らぎを求めた。
 信長、秀吉、家康。天下統一に向かって知謀と戦略をつくしたこの3人も香に親しんだ。わけても家康の遺品のなかには88貫(約330kg)の香木が残されていた(『大日本史料』第12篇之24)。
 江戸時代も中期に入って天下が落着くと香は庶民の生活にも普及していった。香道は富裕な商人の出現や町人文化とあいまって最盛期を迎え多くの流派が生まれた。香道具は大名や豪商たちの必需品になったのである。また香道の興隆にともなって高井十右衛門(香十【こうじゅう】)など香具を専門に商う商人もあらわれた。仏の供養に使われる線香、一束まとめて焚いてしまう80円とか100円の杉線香がつくられるようになったのもそのころからである。

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 この杉線香に生涯を賭けた男がいる。
 安達繁七【しげしち】。
 天保12年(1841)越後(新潟県)三島郡片貝村【さんとうぐんかたかいむら】(小千谷市片貝町)に生まれた。現在の小千谷市の北端の集落で越路ッ原【こしじっぱら】と呼ばれる丘陵の東の麓にあり、町の東を関越自動車道が走る水田地帯である。
 繁七の生家は酒造家であったというからこの村では裕福な家の子供としてなに不自由のない少年時代を過ごしたことだろう。しかし、その生家が倒産したため彼は郷里を出ることになった。
 繁七に関する史料は断片しか残されていないので想像するしかないのだが、片貝村から彼は江戸へ向かったものと思われる。
 小千谷、十日町を経て三国峠を越え、沼田に出た。
 沼田からは赤城山を左に見ながら男体山(海抜2482m)を目指し、二荒山神社に参拝した。繁七は江戸でひと旗あげるつもりであり、成功を祈ったに違いない。これが元治元年(1864)繁七が23歳の夏であったと伝えられている。
 繁七は凡庸な青年ではなかった。彼は男体山にも日光にも街道やあたり一帯の山々にも見わたすかぎり杉がたっぷりと繁っていることに目をつけた。
 このあたりは年間雨量が2800mm前後もある。気温差が大きい内陸型気候と土壌が杉の成育に適していて今でも栃木県下有数の木材集散地である。わけても今市市の60%は山林であり、うち50%以上が杉を中心とする針葉樹林である。そして、そのころは材木業者が杉を伐採したあと払い落とされた枝葉が山林にそのまま散乱していて誰も片づけようとしなかった。つまり、それを拾い集める者が山を掃除するという形になって金など払わなくても材木業者に喜ばれた。相当大量に拾い集めても酒3升か5升の謝礼で済んだ。酒瓶1升が7銭か8銭だったからタダ同然である。運び賃も一駄に6束を積んで4、5銭、遠くても7銭か8銭の代金であった。
 繁七はこの原料の豊富さと経済性に目をつけ、郷里の片貝村で農家の副業として細々と行われていた杉線香作りを本格的に企業化しようと考えた。
 さらに繁七が非凡であったのは精米用の水車に着目した点である。

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 今市は東南に向かって流れる大谷川【だいやがわ】、古大谷川、赤堀川、小百川によってつくられた扇状地で、これらの川から分流させた農業用水が水車の動力を提供してくれることを計算したのだ。電力も内燃機関もない時代のエネルギーの確保は牛馬か水車しかなかったとはいえ繁七は新しいタイプの企業家として新しい視点からモノを見ていたといえる。
 さっそく線香の製造にとりかかることにした繁七は、だが、最初からつまづかなければならなかった。線香をつくる木製の機械の構造と様式をまったく知らない大工にそれを作らせようとしたためいくら説明しても理解させることができなかったのである。
 ようやく機械を完成させた繁七は今市の醤油醸造家・上沢商店の裏の空倉を借りて改造し、製造所にした。さらに2年後には瀬川というところへ移転して営業を拡張した。つづいて杉の粉をつくる水車を持ち、包装用の紙から箱までを一貫製造するようにした。  レッテルにはk05_03のイメージマークを使い「桑蘭香【そうらんこう】」「辯天香【べんてんこう】」「源氏香」などという名前を使って売り出した。販売は製造開始時からの後援者である隣家の荒物商・柏屋こと加藤保左衛門が引き受けた。
 保左衛門は侠気があって東京・日本橋小網町に支店まで出して線香を売って繁七を助けた(太田晃山氏著『野州線香の由来』)。しかし、線香の製造会社を開業して23年後の明治20年(1887)繁七は病気で亡くなった(病名不明)。
 繁七が設立した会社はその後も順調に売り上げを伸ばし、明治30年(1897)ごろには最盛期に入って杵【きね】20丁と10丁の二つの製粉水車(工場)を所有した。これを製粉月産2千貫(7500kg)とし、製品1箱に4貫(15kg)の原料を使ったとすると、500箱製造したことになり相当な盛況であった。建物12棟、職人50名。醤油醸造にも手をのばして使用人総計7、80名にもなった。
 この会社は明治33年(1900)につぶれてしまったがその功績は大きかった。なぜなら繁七が郷里の越後から呼び寄せた職人衆が熟練した技術者に育ち、今市周辺に散らばって線香業が次世代に受けつがれたからである。
 繁七の商売の成功を見た郷里の人々も続々と移住してきて杉葉の製粉・線香工場を開業し、それは今市の主要産業として育って現在までつづくことになった。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『日本名産事典』(日本図書センター)など多数。
ご意見・ご感想などは
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