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第19回 意識改革と現実
●勘略奉行・恩田木工の考え方●
文/撮影 泉秀樹



 江戸時代中期は貨幣経済、商品経済が発達して商人が台頭したが大名は参勤交代や江戸屋敷での生活を強いられ出費が増えていた。
 頼みの年貢収入は頭打ち、さらに幕府から命じられる手伝い普請などさまざまな重い負担によってどの藩の財政もかなり深刻化し、自然災害が窮乏にいっそうの拍車をかけていた。
 そして領主の強圧的な支配下、年貢の増徴政策は百姓一揆を頻発させていた。一揆は天正19年(1591)から慶応3年(1867)まで3212件、年平均11.6件にのぼった(青木虹二『百姓一揆総合年表』)。
 また藩の財政赤字を補填したり新しい仕事を展開するための借金も返済能力の悪化を理由に豪商側が融資を拒む貸し渋り状態におちいっていた。
 宝暦から天明期(1751〜88)のどの藩政改革もこうした情勢に対応しようとしたもので、財政再建と支配体制の再構築つまり財政・行政改革を目的としていた。
 藩によって改革の内容や方法は異なるが最大の共通点は財政の基礎である農村の立て直しにあった。

 松代(長野県長野市)真田家は有名な戦国武将である真田昌幸の長男・信之を初代として信州・上田にあった。
 元和8年(1622)4万石を加増されて松代に転封。
 六代・幸弘は元文5年(1740)松代に生まれ、幼名は豊松といった。
 宝暦2年(1752)に五代・信安が死去すると幸弘は13歳で藩主の座につき、宝暦5年(1755)には九代将軍・家重に謁して従五位下伊豆守に叙任された。
 領地内には善光寺平や川中島など肥沃な平野部もあったが千曲川と犀川が領内を通っていて水害が領民を長く苦しめていた。
 とくに寛保2年(1742)の水害は信州一帯に被害が広がり、松代城の本丸まで浸水して信安が船で高台まで移動したという。
 この水害のすさまじい打撃で領地の石高の3分の1が回復不能の状態に陥った。ために財政が窮乏して以後は藩士の知行・俸禄が半分差引かれる「半知【はんち】借り上げ」の政策が恒常化し一揆が各地で続発して藩は崖っぷちに立たされた状態となった。
 真田幸弘はここで恩田木工【もく】を起用したのである。

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 恩田木工は享保2年(1717)に松代藩の家老・恩田木工民清の子として生まれた。通称・佐吉のちに靭負【ゆきえ】、さらに木工と改めて諱【いみな】を民親と称した。
 享保20年(1735)家督を継いで知行千石、元文4年(1739)城代、延享3年(1764)家老となった。
 宝暦7年(1757)には崖っぷちに立たされていた幸弘の特命で財政を統括する「勝手方御用兼帯」に任じられて藩政改革を受け持つことになった(同5年説もある)。
「勝手方御用兼帯」を木工は「勘略奉行」と自称した。倹約と財政再建を行う責任者という意味で、この役に就いた木工はまず身辺を清潔にした。
 妻との間に嫡男・宣民以下三男二女の子供がいたが、木工は決して嘘は吐かぬこと、倹約を率先し、飯と汁よりほかには食べず、木綿の衣服以外は決して身に纏わぬことを誓わせた。奉公人たちも同様の「誓詞」を交わした。まず「隗【かい】よりはじめよ」である。
 つづいて木工は諸役人にこう誓った。
「各方を始め下々まで、只今までは歩引【ぶび】きこれあり候へども、手前御役の間は歩引申さず、本高の通り日々きっと相渡し申すべく候。その代わりは、御奉公に少しもそ略これあり候へば、拙者が免し申さず候。きっと曲事【くせごと】申しつくべく候」
 すでに述べたように松代藩では「半知借り上げ」と称して知行百石以上の者は一律50パーセントを天引きされ、それ以下は切り米・扶持米取の者にいたるまで給知給米が削減される政策がとられていた。
 しかし木工は「本高」(本来の封禄)を全額渡すと約束した。悪事・怠職に関しては「曲事」(必罰)をもってあたると明言し、武術・学問はもちろん時には遊芸の楽しみも必要であると説いた。
 全町村役人、御用金や先納年貢の上納者、年貢未納者を集めて木工は「まず手前儀、第一、向後【こうご】虚言を一切言わざるつもり」にはじまり音物(贈り物)や賄賂を断ち切ることを宣告した。
 また松代藩では「年貢物」(本途物成)以外に「諸役」(現物や貨幣納化した各種の雑税)があった。木工はこれを整理した。基本的なものは従来通りにしてそれ以外の「雑物」は免除した。
 従来通りのものとしては貨幣納(夫給金・鉄砲役等)と現物納(綿・大豆等)と現夫役(郡役人足・伝馬人足等)で小麦や胡麻などは切り捨てられた。
 これに対して総百姓は「ありがたきこと」と請書を出した。
 木工は家業出精のうえ碁・将棋・双六・三味線・博奕を楽しみ神仏信仰や親孝行や兄弟夫婦和合すべしと語りつづけた。
 木工の功績を描いた『日暮硯【ひぐらしすずり】』(作者・原本とも不明)は木工の改革によって家中は文武・職務に精励し、諸人安楽、藩財政も五年もたたぬうちに好転したと述べている。

 しかし現実は『日暮硯』に書いてあるようになんて運ばなかった。
 まず家中の半知借り上げ中止についてである。
 松代藩の半知借上げ政策は享保14年(1729)にはじまり寛保元年(1741)以降も常態化していた。このことは木工の在任中も変わりなく幕末までつづいたのである。
 下級藩士への蔵米支給も思ったようにはいかなかったし、領民の役儀が免除されたというのは誇張である。
 また、町奉行・職奉行や勘定方の役人によって役務日記が役人の退職と同時に持ち帰られていたのを役所で引き継ぐ制度にした(『御郡方日記』)というが、この制度も木工の創始ではなくそれ以前から実施されていた。
 さらに『日暮硯』は年貢の日割り上納制の採用を木工が創始し、実施したと述べている。
 この日割り上納は年貢先納金の分割上納仕法(分割納税)であり秋の収穫後に12等分に分けた。3月か4月から上納し始めて10月に公定値段で精算した。
 しかし、この方法は寛保元年(1741)前藩主・信安の登用した原八郎五郎が創始した政策で木工はそれを手直ししながら引き継いだと思われ、残念ながら木工の生きている間に財政は好転していない。
 といっても木工が実質的な行・財政再建に失敗したということではなく文武鍛錬や民政の公正・合理化の実績をあげることはできた。まず意識改革であり政治の信頼回復であり、それを基礎とした財政の充実と政治改革を目ざしたのだ。
 早急な改革なくして成長も安定もないけれども、実際には長い時間がかかるのが難しいところである。
 宝暦12年(1762)正月6日、恩田木工は46歳で生涯を終えた。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『日本名産事典』(日本図書センター)など多数。
ご意見・ご感想などは
hidequii@yahoo.co.jpまで。



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