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第20回 「人民永遠の利害を顧みず」
●十和田湖と和井内貞行●
文/撮影 泉秀樹



 十和田湖に伝説がある。
 昔々、南祖【なんそ】坊という行者がそれまで湖の主であった八郎太郎を退散させて湖畔に青龍権現を祀り、みずから別当になった。この青龍権現が魚族を忌み嫌うため十和田湖には魚がいない。また、青龍権現に参拝する者はその17日前から魚を食べてはならない。湖畔で魚という言葉を使っただけで神罰があたるという伝説である。

 和井内貞行は安政5年(1858)2月15日、治郎左衛門の長男として陸中・毛馬内【けまない】柏崎(秋田県鹿角市毛馬内字柏崎3ノ2=「鹿角市先人顕彰館」)に生まれた。父・治郎右衛門は南部家の毛馬内支配・桜庭家(二千石)の用人として三十八石を給されていた。
 慶応2年(1866)貞行は9歳で泉沢恭助(修斎)の塾に入門して漢学を学んだ。
 2年後の慶応4年(1868)には戊辰戦争が起って同時に明治となり、明治4年(1871)には廃藩置県、学制の整備、6年には徴兵令が出された。貞行は日本の近代化、明治とともに歩きはじめたのである。
 明治7年(1874)毛馬内村に小学校ができると貞行は17歳で給料2円の教員手伝いになった。厳格な母・エツに似て厳しい教師だったという。
 7年後の明治14年(1881)12月、貞行は教員をやめて小坂鉱山に入社、十和田鉱山勤務を命じられ鉱山の事務所で鉱夫の監督になった。3年後には湖畔にある銀山(秋田県・小坂町字十和田銀山)の精錬所の倉庫係長に昇進し、このころから周囲44キロもある十和田湖になぜ魚がいないかを本格的に考えはじめた。養鯉の盛んな毛馬内で育った貞行には十和田湖に魚がいないことが不思議だった。
 わずかながら休屋【やすみや】や宇樽部【うたるべ】で栽培された野菜が鉱山に運び込まれていたが魚は八戸近くの鮫港から山坂を越えてくる干物や塩鮭くらいだった。したがって新鮮な魚を食べることはこの地方の鉱山で働く者の切実な願望だった。 
 貞行は鉱山所長・飯岡政徳や宇樽部を開拓したり私費で十和田鉱山から戸来【へらい】村(青森県)に通じる20キロの道を開いたりして鉱山と取引きをしている三浦泉八や、鹿角郡長・小田島由義と相談して養魚の計画を実行に移した。
 明治17年(1884)貞行27歳のときで大湯村の旅館から鯉の稚魚600匹を共同で買って十和田湖に放った。鯉は成長が早く高く売れるからだ。

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 十和田湖の養魚事業に取り組んだのは貞行が最初ではない。
 まず安政2年(1855)角久平等(十和田村=青森県上北郡)がイワナを子の口【ねのくち】へ放流した。明治10年(1877)には吉田藤吉(小坂村)が湖にイワナを放流。
 明治12年(1879)貞行が養魚の相談をした十和田鉱山長・飯岡政徳が鯉1万尾とフナ若干を放流。つづいて明治15年(1882)7月に三浦泉八が鯉とイワナ数百尾ずつを湖と宇樽部川に放流。そして貞行と飯岡と三浦、小田島の放流である。
 つづいて明治18年(1885)飯岡政徳と千葉某(大場村・千葉旅館主)も鯉の親魚と稚魚牛二駄分を放流。19年にも貞行はイワナと金魚を放流した。さらに明治20年(1887)には三浦泉八がフナとシジミを宇樽部前浜へ放流した。
 十和田湖にはまったく反応がなかったが、明治26年(1893)宇樽部の炭焼きが湖面にとびあがる鯉を発見した。貞行たちが放った鯉である。しかし、これは確認がとれず、翌年の春ようやく鯉がとれるようになった。
 鯉がとれるようになりはしたものの、湖岸に住む人々も鉱夫もこれを乱獲し放題で漁業権のない貞行は手をこまねいていなければならなかった。
 秋田・青森に申請して漁業権を獲得しても、密漁者は減らなかった。
「湖辺住民の人民永遠の利害を顧【かえり】みず、徒らに捕獲する者往々これ有り」(明治26年9月7日付秋田魁新報)という。大衆には目先の利益しか見えないのだ。

 貞行が十和田湖畔の銀山に古い商家を買って改造し旅館・観湖楼を開いたのは明治33年(1900)春のことだ。
 採算性が低すぎて鯉の養殖に失敗した貞行はカワマス(サクラマス)の卵を孵化させて5000尾を放流した。
 そこへ東京から農商務省の水産技師・松原新之助が貞行の孵化場を視察にきたので奥入瀬に案内し、銚子滝【ちょうしのたき】を見せた。そこではじめて十和田湖の伝説が覆された。
 松原は銚子滝(高さ8メートル)が「魚止めの滝」になっていて魚が十和田湖まで遡上できないことを指摘したのである。
 すでに明治27年(1894)三浦泉八が試みて失敗していたのだが、貞行はダイナマイトも使わず人夫に魚道を掘らせた。
 そして34年12月春にも貞行は日光マスの卵を孵化させて3万5000を放流した。
 35年秋。先に放流したカワマスが帰ってくるはずだった。が、数匹しかとれず、それも共食いした傷がついていた。そのうえあとで放流した日光マスの稚魚がカワマスに食われていることもわかった。
 結局、カワマスはメスだけが銚子滝から海へ下り、わずかしかもどってこなかった。もどったカワマスは日光マスを食い荒したということだった。オスは海へ下らないで陸封(一度も海に下らないで淡水で生育すること)のヤマメに変化してしまっていた。
 貞行はやむなく銚子の大滝に開削した魚道をふさいでしまった。
 つづいて日光マスだけを放流したが、これも養魚池で育てたため回帰性を失っていて十和田湖では繁殖しなかった。

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 養魚に取り組んで18年をかけてもことごとく失敗して貞行は成果をあげられなかった。すでに父・治右衛門の財産から妻の着物まで換金して使い果たし、貧困のどん底で生きる気力もなくなるほど打ちのめされていたが、貞行は偶然カバチェッポ(ヒメマス)の存在を知った。
 青森の東北漁業組合本部を訪れたとき居合わせた信州(長野県)の寒天商・中島庸三がそれは北海道・支笏湖で養殖されていると教えてくれたのだ。
 貞行はこの卵を孵化させて3万尾を十和田湖に放流した。
 3年後の明治38年(1905)10月中旬、カバチェッポは産卵のために岸近くの浅場へ回帰してきた。魚群の塊が湖の水面一面に銀波となっておしよせてくるのを見て貞行は気が狂ったように喜んだという。
 22年の歳月をかけたプロジェクトがようやく成功したのである。
 貞行はさらに十和田湖を国立公園にする運動を展開したが大正11年(1922)5月16日、過労のため65歳で亡くなった。
 そして十和田湖は昭和11年(1936)2月に国立公園に指定された。

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いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『日本名産事典』(日本図書センター)など多数。
ご意見・ご感想などは
hidequii@yahoo.co.jpまで。



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