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第22回 流通網を整備した男
●河村瑞賢と江戸経済を支えた航路開発●
文/撮影 泉秀樹



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河村瑞賢の像(酒田港)

 「日本一の分限者」とうらやましがられた河村瑞賢【ずいけん】は「心は小さく、こまかに持ち、家業を大きく伸ばすこと、傘のごとくに心得るがよい」といった。
 傘は中心となる小さな芯棒の部分で自由にひろがりもすれば、すぼめてたたんできちっと締めることもできる。傘(商売)を広げるばかりでも、大事な締めの部分がなければ、一時は大きな商いをして儲けてもすぐに没落してしまうものだという言葉である。
 瑞賢は伊勢(三重県)度会郡東宮村の貧しい農民の長男として生まれた。
 弟に家督を譲って江戸に出たのが13歳のときで、当時は大坂の陣によって豊臣氏を滅ぼした徳川氏が江戸を都市として造成しようとしていた熱気と活気にみちた時期だった。
 瑞賢は「車力【しゃりき】」と呼ばれる荷運びの仕事を懸命に続けながらチャンスの到来を待った。しかし世の中はそれほど甘くはなかった。芽が出なかったのである。故郷を後にして6、7年を経たころ、瑞賢は江戸に見切りをつけて再度チャレンジしようと西に向った。
 ところが小田原の宿で出会った老僧に「今は、大坂よりなんといっても江戸だ。それにおまえは立身出世する相をしている。もう一度江戸にもどってチャレンジしてみなさい」と励まされた。老僧のことばに奮起した瑞賢は早速きびすを返してもう一度江戸に向ったのである。品川の宿にさしかかったとき、瑞賢は盆の精霊流しの瓜や茄子が海岸に大量に打ち上げられているのを見た。頭にまばゆくひらめくものがあった。瑞賢は人を使って瓜や茄子を拾わせると、漬物にして力仕事をする人が集まる場所や工事現場で売った。材料はタダだから大いに儲かった。同じ発想で落ちている草鞋を拾い、壁材として左官屋に売ったともいわれている。その後は日雇い頭となって蓄えた金を元手に材木商を始めた。明暦3年(1657)1月18日、運命の日がやってきた。「明暦の大火」または「振袖火事」と呼ばれる火事が発生したのである。
 江戸のほとんどを焼きつくし、10万7千人以上の死者を出す大惨事となったが、瑞賢はこのとき燃えさかる自宅をうち捨ててありったけの金をふところに入れると木曽福島(長野県)に向った。
 江戸に大火が起ったニュースはまだ木曽に届いてはいなかった。瑞賢は木曽の木材を一手に監理していた山村家を訪れた。
 山村家の庭先で遊んでいた子供を見た瑞賢は所持金の中から小判を3枚取り出して穴をあけると紙こよりを通し、子供におもちゃとしてあたえた。
 そして山村家の主人に面会を乞い、あるだけの材木を買いたいと申し出た。
 主人は一瞬警戒したが、子供にあたえた小判を見てすっかり瑞賢のことを江戸の大商人だと思いこんで、信用してしまった。
 しかし、瑞賢のふところには最初から10両しかなかった。そのうちの3両を子供にあたえたのである。この大バクチに勝ってまんまと買い占めに成功した瑞賢はすぐさますべての材木に「江戸河村十右衛門用材」という刻印を押してしまった。
 まもなく江戸の復興のための材木を求めて江戸の材木商たちが木曽に殺到した。
 しかし、どこをさがしても買える材木はない。あるのは瑞賢の刻印をした材木ばかりだった。彼らはついに瑞賢から材木を買うより他に手段はないことに気がついたのである。
 このようにして瑞賢は巨利を手にした。
 そればかりか幕府の普請方に接近し大名や旗本たちの屋敷の新築工事を請負ってさらに富を蓄積した。まさに機を見て他の商人たちより一瞬早い行動を取った瑞賢の大成功だった。

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 瑞賢はこのようにして押しも押されもせぬ大商人になったが、単に商売のチャンスをうかがって勝負に出て大当りという投機的な人物ではなかった。
 冒頭のことばのように、いくら機敏に働いて商売を大きくすることに成功しても要の部分がなければたちまちのうちにすべてを失ってしまう。そのことを瑞賢はきちんと認識していた。では瑞賢にとっての要の部分とはなんであったのか。
 瑞賢が紀伊国屋文左衛門のように投機的な商売をしたのは事実だが、その反面、行動に出る前に集められるだけの情報を手元において研究し、調査に調査を重ねていたのである。
 それは木材の買い占めによって成り上がった後に手がけた数々の事業の成功を見ても明らかである。
 やがて瑞賢の才能を高く買った幕府は奥州の年貢米を安全・迅速かつ少しでも経費をかけないで江戸に輸送するための流通開発を瑞賢に依頼した。
 奥州から江戸への米の廻送は従来は阿武隈川から海路で銚子へ、それをまた利根川から江戸へと運ばなければならず、積み直しが多いために手間も時間もかかっていた。
 瑞賢は綿密な現地調査と情報分析の結果、房総半島の南端を回って江戸湾に入る従来の航路は海難事故が多いこと、さらには船頭が海難事故を装って積荷を不当に処分して私腹を肥やす事件が多発していたことが判明した。
 そこで瑞賢は船をいったん三崎港か伊豆の下田に寄港させ、その後江戸に引き返すという航路を開発した。不正行為に対しては要所ごとに厳しいチェックを実行し、安全のためには頑丈な船を採用して港などの整備にも努めた。

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「酒田袖之浦・小屋之浜図」(所蔵・財団法人本間美術館)

 この航路の開発によってそれまでの半分の時間と費用で、かつ安全に江戸に着くことが可能になった。これがいわゆる東廻り航路である。
 東廻りの航路の成功に気をよくした幕府はさらに出羽国(山形県)から江戸にいたる航路の開発を瑞賢に命じた。
 東廻り航路の開発よりさらに難しい事業に取り組んだ瑞賢は前にも増して徹底的な事前調査を行った。
 それを充分ふまえた上で北海道、津軽、出羽、北陸からの産物を、下関を通りさらに瀬戸内を抜けて大坂に直行するという壮大な構想を立てたのである。
 航海の安全を期して難所の下関には水先案内船を置き四国・讃岐の塩飽【しあく】諸島の堅牢な船舶と優秀な船頭を採用した。また、風雨の中の難所を無事に通り抜けるために狼火をあげて目標とした。もちろん港湾を整備し灯台をつくることも怠らなかった。
 この行き届いた西廻り航路の開発によって障害の多い陸路を利用しなくてもすむようになり、江戸の流通経済は大いなる発展をとげた。
 つまり、瑞賢にとっての傘の要とは徹底的な調査に基づく情報、データ集めと緻密な計算力と企画力に他ならなかった。
 その他、淀川の改修工事や各地の用水路の開発、銀山の調査など瑞賢は休みなく働いてついには旗本に任じられ82歳で病没した。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『日本名産事典』(日本図書センター)など多数。
ご意見・ご感想などは
hidequii@yahoo.co.jpまで。



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