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第23回 古都を近代化するために
●琵琶湖疏水を開通させた男たち●
文/撮影 泉秀樹



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夷川発電所にある京都府知事・北垣国道の像(左)
インクラインのそばに立つ田辺朔郎の像(右)

 北垣国道が京都府知事に就任したのは明治14年(1881)2月のことである。
 北垣は天保7年(1836)8月7日に但馬【たじま】・養父【やぶ】郡建屋【たてや】村(兵庫県養父郡能座)の中農・北垣三郎左衛門(郷士)の子として生まれ、尊皇攘夷の志士として活動、戊辰戦争で手柄をたてて新政府の鳥取県少参事、熊本県大書記官、高知・徳島県令などを歴任して京都府知事に栄転した。
 京都はそれまで千年以上も日本の首都として栄えていたが明治2年(1869)に東京遷都が行われて以来急速に没落していた。人口が6万以上も減っていたし町全体を豊かにする産業らしい産業もなかった。そもそも日本全体が困窮していたのだ。

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写真3点:滋賀県大津市観音寺・浜大津4丁目にある琵琶湖の水を山科経由で京都へ送る水路とトンネルの入口

 凋落した古都を復興、近代化させるために北垣はただちに琵琶湖と京都を水路で結ぶ計画をたてた。
 水力による工業動力を確保して産業を発達させること。物資や人の運輸・流通をさかんにすること。農業用水、精米、火災防止、用水不足の解消、衛生の改善などが目的であった。
 琵琶湖面と京都・三条大橋の標高差が150尺(約45m)あることを確認すると、北垣は参議・伊藤博文、内務卿・松方正義などに計画を相談しながら農商務省一等属・南一郎平に工事主任として総合開発計画書をつくらせ、工部大学校(東大工学部の前身)の校長・大鳥圭介に疏水の計画・設計を担当できる者を紹介してほしいと依頼した。大鳥は旧知の外交官・田辺太一の甥・田辺朔郎を紹介した。
 田辺朔郎はこのとき19歳の学生で「琵琶湖疏水工事の計画」という卒業論文を書いたばかりだった。
 北垣は田辺を明治16年(1883)5月22日をもって京都府御用係として採用し、田辺はお雇い外国人ファン・ドールンの協力を得ながら計画を練りあげていた南たちに合流してこの計画に参加することになった。
 北垣は高知県六等属・嶋田道生の測量技術にも注目して着々と疏水計画のための測量も進めていた。嶋田は高知と京都府の六等属を兼任しながら働いた。
 田辺と嶋田は北垣の下でよき仲間、ライバルとして知恵を出し合うことになる。20歳そこそこの新卒と他県の役人を抜擢【ばってき】して国家的なプロジェクトを推進する重要な立場に置くことなど現在では考えられない。

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写真左:山科・本圀寺近くを流れる疏水
写真右:イギリス土木界から贈られたその世界の栄誉あるテルフォードメダル

 琵琶湖から京都へ水を引く計画は突然生まれたものではなく、すでに平清盛のころから幕末に至るまで幾度となくさまざまな人によって計画されていたから田辺らもそれを研究してルート(第一疏水)を決めていった。
 琵琶湖→大津市三保ヶ崎→第一トンネル(長等【ながら】山トンネル/上下5m、幅4・5m=長さ2436m)→天智天皇陵の麓を迂回→第二トンネル(124m)と第三トンネル(日岡峠トンネル=長さ849m)→蹴上浄水場(のちに第二疏水を合流させた)→水は36mの落差を駆け落ちて蹴上【けあげ】発電所へ。
 そして、疏水は北西に分流(疏水分線)し南禅寺の境内前を通り(水路閣)、鹿【しし】ヶ谷を抜けて導水管で松ヶ崎浄水場へ向かう。この分流に吉田山の裏の若王子【にゃくおうじ】神社から銀閣寺の西側まで沿う道が「哲学の道」である。
 蹴上の舟溜りから舟は船架台に乗ってインクライン(傾斜鉄道/勾配5分の1)の軋道を528m下ってゆく。流れは聖護院【しようごいん】町、岡崎町経由で鴨川に流れ込む。のちに鴨川の左岸に沿って暗渠【あんきょ】を含む9km(鴨川運河)を流れて伏見に至る水路も開削された。
 工事費は125万円で今日の約1兆3000億円に匹敵するという。

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写真左:インクラインとレールの上を移動させて舟を運ぶ船架台
写真右:インクラインの上で疏水は分かれ、銀閣寺の方角に向かう。その水の流れに沿う若王子神社から銀閣寺門前までの小道が「哲学の道」である

 東京では連日、日比谷の鹿鳴館ではなやかな舞踏会が催されていた明治18年(1885)の6月2日に起工式を行い、延べ人数400万人(事故死14名)の人夫が約5年間はたらいて疏水は23年4月9日に完成したものの、このプロジェクトには当初からさまざまな障害がつきまとった。
 まず土木行政の所管がはっきりしていなかったから北垣は内務省土木局にも農商務省にも連絡しなければならなかった。これに藩閥政治、薩長の勢力争いが加わっていたからことは面倒だった。
 農商務省=薩摩系=疏水係。
 内務省=長州系=土木局。
 それぞれの役所が片や土木の仕事ではない、片や農業関係の仕事ではないと主張して北垣は許可をとるときにさまざまなムダな苦労を強いられた。

 北垣は京都府と滋賀県の利害の対立も考慮しなければならなかった。平戸藩出身の滋賀県令・籠手田安定も硬骨漢で当然ながら琵琶湖の水をとられて不利益にならないように動く。
 といっても、対立したのは私利私欲からではなかった。
 籠手田の背後には薩摩出身の政商・五代友厚がいたし、伊藤博文や井上馨とも親しい間柄だから話は複雑である。それに「富国強兵・殖産興業」が国家のスローガンであり府・県間は協力どころか牙をむいて対立している状態だったから、籠手田が明治17年(1884)7月に辞職することになって県令に新しく中井弘が着任するまで北垣の計画は思うように進めることができなかった。
 こうした問題に加えて京都の上・下京区の疏水工事費の負担金徴収問題があった。工事がはじまってから「地価割」「戸数割」「営業割」で徴収される賦課率がどんどん高くなっていたからである。そして田辺や嶋田みたいな若造たちにこんな重大な仕事をまかせていいのかという抗議も発生してきた。
 そうした不平不満が最も激しくなった明治21年(1888)7月、北垣は体調を崩していたにも拘わらず疏水工事について疑問があれば自宅を訪ねてくれれば納得のいくように説明するといって18日から3週間朝8時から晩6時までを面接時間とした。
 クレームをつける人々に北垣は、負担金は一戸平均10円たらずで所得に応じた徴収だからなかには金額が10銭にもならない者もいることだし、子孫のために利益になると考えれば安いものではないかと丁寧に説得したという。

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南禅寺・南禅院の前を通るレンガ造り水路閣はインクラインとともに京都市指定史跡である

 ほどなくインクラインは鉄道にとってかわられたが、琵琶湖疏水は京都を電化し、路面電車を走らせ京阪神地域の上水道、工業用水として利用されただけでなく琵琶湖の総合的な開発に大きな影響をあたえてきた。そしていまなお発電事業や水道、工業・灌漑用水として、あるいは運河や雑用水などに使われており、疏水全体の美しい景観が人々に憩いと安らぎをあたえ、京都らしい歴史をたのしむ文化的な空間を展開している。
 北垣の決断力とリーダーとしての牽引力、障害を乗り越える意思の強さと明治の優秀な青年の共同チームは日本に大きな遺産を残したと考えるべきだろう。まさに「その意気や、壮!」である。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『日本名産事典』(日本図書センター)など多数。
ご意見・ご感想などは
hidequii@yahoo.co.jpまで。



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