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第24回 生きる技術をあたえる
●盲人教育の先駆者・杉山和一の一生●
文/撮影 泉秀樹



杉山和一の肖像

 杉山養慶【すけよし】(やすよしともいう)は慶長18年(1613)伊勢国・安濃津【あのうづ】(三重県津市)に生まれた。
 父は三二万石を領する藤堂高虎に仕える禄高二百石の杉山重政、母は尾張(名古屋)徳川家の家臣・稲富祐直の女【むすめ】だから中級武士の家庭に生まれたことになる。
 5歳(10歳説もある)のとき疱瘡【ほうそう】(天然痘)にかかって失明したという。
 少年時代の様子はわからないが17、8歳になったときに養慶は江戸に出て鍼術を学ぶことにした。
 江戸に下った養慶は山瀬琢一の門人になった。
 養慶は和一(以下・和一)と名乗って修業をはじめたが箸にも棒にもかからなかった。
 「性魯純【ろどん】にして技進まず。ついにその逐【お】ふところなる」(『皇漢医学に及導引の史的考察』石原秀保)
 頭が弱いうえに不器用で鍼の技術などおぼえるどころではなかったから破門されてしまったという。
 和一は弁財天に助けを求めて江の島を訪ねた。
 弁財天に三七 二十一日間一心不乱に祈りつづけて結願【けちがん】(祈願の終了)の日を迎えた。この結願の日に江の島の下の方へおりてゆく途中、和一は石につまずいて転倒して全身を強く打った。
 我に返ったとき筒形に丸まった葉っぱをつかんでいてそのなかに松葉が1本入っていたという。
 こんなどうでもいいようなことが日本の医学の歴史上重大な出来事だったのである。

上段左:境川河口から見た江の島。展望塔(灯台)が新しくなった。
上段右:江島杉山神社(通称・一つ目弁天)は本所一つ目(東京都墨田区千歳1丁目)に勧請(かんじょう)された。ここは和一の邸宅跡である。
下段左:「ゑのしま道」と彫られている。その上の梵字は財才天をあらわす種子(しゅじ)の「ソ」である。側面には「一切衆生」「二世安楽」と彫られている。杉山検校はこの道標を80数基も建てた。
下段中:江の島にある和一の墓。
下段右:江の島の福石。和一のつまづいた石で、この周辺でなにか拾いものをすると幸福になれるという。

 筒形になった葉っぱのなかに松葉が入っていた。凡人にとってはただそれだけのことだが和一はこのことから「管鍼【かんしん】」を思いついたのである。
 細い金属の管にそれよりも少し長い鍼を入れて皮膚に当てると、わずかだが管から鍼の尻の部分が出る。鍼の尻の部分は竜頭と呼ばれ尖った先端に近いところより少し太くつくってある。施術者は人さし指でこの竜頭の部分を軽くたたいて鍼を刺す。この鍼の打ち方だと痛みがやわらかく刺すことができる。盲人が細い鍼1本だけを持って撚鍼や打鍼をするのは難いけれども、管を使用すれば鍼を打つ場所も固定できるし打ちかたもすいぶんやさしくなる。
 和一は江の島から師匠の琢一のもとに引き返して新しく大発見(大発明?)した技術に磨きをかけ、さらに京都にいた琢一の師・入江良明を訪ね、その子の豊明について入江流鍼術を修めた。
 和一が京都から江戸へ帰って京橋、つづいて麹町で開業すると患者が朝な夕なにおしよせたという。門弟も増える一方で「名鍼医」という名声は江戸に響きわたった。
 針を刺す技術を簡易化し穿皮時の痛みを小さくした杉山流は多くの患者だけでなく盲人の世界にも爆発的な勢いでひろまっていった。
 「針にこころざし有【あ】って夕べに道に至るは管針にしくはなし、まなびやすくして針を下すに痛まず病人の精気衰えず」(『鍼灸抜萃』原文・片仮名混じり文)といわれた。和一は盲人に技術をあたえて生計を立てる道を切り拓いたのである。

検校の図(『人倫訓蒙図彙(づい)』より)

 寛文10年(1671)1月元旦、盲人が就く最高位の僧官・検校【けんぎょう】に就任した和一は72歳になった天和2年(1682)9月18日「鍼治【しんち】学問所」(鍼治講習所)を創立した。
 幕命を受けてのことであったともいわれるが、これを機に私塾ではなく公的な学校としての形を整えたのだろう。千住、板橋、新宿、品川などにも講習所を設けたという。
 「鍼治学問所」の教科書は杉山三部書といわれる『選鍼三要集』『医学節用集』『療治之大概集』を使った。3冊とも70歳のころにはすでに書きあげていたといわれ内容は難解である。
 「鍼法には諸種の秘法があるといっても、要穴を補瀉【ほしゃ】(補ったり吐き出させたりすること)するのが最も重要な事柄であるという。まず虚実を弁別して補瀉の技法を施すのであるが、それには井【せい】・栄・兪【ゆ】・経・合の経穴を宗とし、各病症に対する要穴を主として配し、これによって治療法を構成するのである」(『杉山和一とその医業』木下晴都)などなどとこんな調子だから内容紹介は省略させていただくが、盲人たちはこうした本を参考に管鍼術を学んだ。
 この時代の72歳といえば相当な老人であり新たに学校を設立するなどよほど知力、気力、体力に恵まれた人物であったと思われる。そのたゆまぬ努力と闘志は超人的である。

 貞享2年(1685)和一が75歳のとき五代将軍・綱吉の病気の治療を命じられてこれに当り、たいへん功果があったと褒められて白銀50枚をあたえられた。
 綱吉は「ぶらぶら病」(ノイローゼ)であったとも「癪痛【しゃくつう】」(種々の病気による胸・腹部の激痛の総称=さしこみ)であったともいうが和一の管鍼によって回復してたいそう感激し、以後主治医のような形になってしばしば治療を施して8月5日には月給二十口(一口=米五合)の奥医師に任じられ鎌倉河岸の対岸(千代田区大手町)の曲瀬玄朔【まねせげんさく】(医師)の旧邸跡をあたえられた。
 和一は80歳になった元禄2年(1689)5月5日には神田小川町に屋敷を拝領して扶持米も三百俵になり身分も御家人から旗本に格上げされた。
 さらに和一は翌々年の元禄4年(1691)に「御城中御勝手向【ごかってむき】乗物御免」となって、この年の12月2日には米二百俵が加増され元禄5年(1692)5月9日には関八州の盲人を総括する「総検校」に任じられた。

写真左:絵島杉山神社に建てられた碑の説明文は点字である。
写真右:管鍼。現代もなお和一の考案した治療法がポピュラーである。もちろん使い捨てだ。

 元禄6年(1693)6月10日。綱吉は黄金の弁財天像と本所一ツ目(東京都墨田区千歳1丁目)に1890坪を町屋敷としてあたえた。
 なぜ本所一ツ目に町屋敷をあたえたかというと綱吉が和一に「なにかほしいものはないか」と尋ねたところ「目がひとつほしい」とこたえたからだという話しが伝えられていて作り話だといわれているが、これは意外とコマかいところに気がつく側用人の柳沢吉保あたりが知たり顔で取りはからったことであったかもしれない。

 元禄7年(1694)5月20日に和一は本所一ツ目の屋敷で亡くなった。85歳であった。
 ヨーロッパではフランスで本格的な盲人の教育がはじまったのが18世紀であったから、和一の盲人に自立の道をひらく技術の訓練ほどこすという先進的な業績は、日本史上にとどまらず世界の盲人教育史上で高く評価しなおされなければならない。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『日本名産事典』(日本図書センター)など多数。
ご意見・ご感想などは
hidequii@yahoo.co.jpまで。



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