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第25回 「有志者」の業績
●パリ万博と清水卯三郎の活躍●
文/撮影 泉秀樹



杉山和一の肖像

 フランス皇帝ナポレオン3世がパリで万国博覧会を開く計画を立てたのは慶応元年(1865)である。駐日フランス公使レオン・ロッシュは徳川幕府にもパリ万博への参加をすすめ代表としてしかるべき人物を派遣してほしいと要望した。
 幕府は将軍・慶喜の弟・昭武(14歳)を名代として列席させることに決めて各藩をはじめ一般商人にいたるまで特産物、取扱品を出品するようにと布告した。
 その結果、慕府が187箱(原価4万7190両余)、江戸の町人が157箱、佐賀藩が506箱、薩摩藩が506箱、計1356箱がパリへ送られることになった。
 江戸・浅草天王町に住んで手広く商売をいとなんでいた清水(瑞穂屋【みずほ】)卯三郎も願書を出してこれに参加して慶応3年(1867)1月17日に刀剣、火縄銃、弓矢、陣羽織、酒、醤油、茶、調味料、化粧道具、鏡、人形、木彫、農具、扇子、提灯、釣道具から鍼道具までを集めて横浜を出帆した。
 博覧会の会場はセーヌ川と陸軍士官学校にはさまれたシャン・ド・マルスに建設された。
 イギリス、オランダ、プロシャ、ロシア、デンマークなどのヨーロッパ諸国やアメリカ、エジプト、モロッコ、中国、日本と文字どおり万国がそれぞれのお国自慢の品々を所せましと陳列し各国の国王や皇帝も集まってパリは万博にわいた。

 はるばる極東から運ばれてきた日本製品はパリっ子たちの興味をひいた。
 長く国を閉ざしていた謎めいた東洋の国の不思議な文化を目のあたりにした人々は驚きの声をあげて絶賛した。
 重厚な漆器、洗練された陶磁器、高貴な絹織物、緻密な版画、描かれた花鳥風月の流麗な線などにとりわけ作家や画家たちは新鮮な衝撃をうけた。
 人気を呼んだのは「茶店」である。
 その茶店は檜造りの六畳間で土間があって、まわりには植木や風俗人形をかざった日本庭園がつくられていた。緋毛氈をしいた縁台がおかれて客はそこで休んだ。
 座敷では江戸の柳橋・松葉屋の芸妓であるかね、すみ、さとの3人がショーを演じた。
 桃割れの髪、友禅縮緬の振袖、丸帯姿でキセルをもってタバコを喫い、手毬をついたり、客に甘い味醂酒のお酌をしたりお茶のサービスをしたのである。現代でいえばイベントコンパニオンとかレースクイーンといったところか。
 プロスペル・メリメ(『カルメン』『コロンバ』の作者)がジェニ・ダンカンという友人に手紙を書いている。
 「先日は博覧会に行きましたが、そこで日本の女たちを見て大いに気に入りました。彼女たちは牛乳入り珈琲のような皮膚をし、それがはなはだ快適な色合いでした。その衣裳の裂目から判断したかぎりでは、彼女たちは椅子の捧のような細い脚をしているらしく、これは痛々しい次第でした。それをとり巻いた無数の野次馬の中にはいって見ながら、欧州の女は、日本の群衆の前に出れば、こんなに落ちつき払ってはいまいなどと考えました」


 その後、卯三郎はフランス滞在中に日本からもっていった平仮名の版下をもとに活字の母型をつくらせた。そして、帰国後に仮名活字を鋳造して活版や石版印刷技術の導入をはかった。
 欧米諸国をまわって慶応4年(1868)5月に帰国した卯三郎は活版・石版印刷機、陶器着色法、鉱物の標本、西洋花火などを買い帰ったが、それらはまた卯三郎自身の教養・思想そのものでもあった。のちに平仮名の石版印刷を行って西洋花火の研究は『西洋烟花之法』という応用化学の本になった。
 一生を通して国語改良の運動家でありつづけた卯三郎はこれからの日本ではむずかしく複雑な漢字や漢語よりわかりやすい平仮名で文章を書くべきだという考えの平仮名論者であった。万延元年(1860)には『ゑんぎりしことぱ』(イギリス言葉)という英会語の訳本を平仮名で書いている。
 また、新聞の創刊、歯科医療機械の輸入販売、窯業用薬品の製造、洋書の翻訳、物理学入門書『ものわりのはしご』をはじめとする数々の著書を出すなど知的好奇心を形あるものにしていった。

 卯三郎は文政12年(1829)に武蔵国埼玉郡羽生村(埼玉県羽生市)の清水弥右衛門の三男として生まれた。清水家は名主で酒の醸造や薬種商もいとなんでいてかなりの資産家だった。
 若くして薬学に関する『日本大黄考』をあらわした卯三郎は明晰な頭脳の持ち主で若いときから漢学を学んで蕉軒と号し、さらに応用化学に興味をもって江戸に出て蘭学を修めた幅の広い教養人である。
 嘉永7年(1854)ロシア使節プチャーチンが下田に来航したとき、26歳の卯三郎は幕府大目付格・露使応接掛であった筒井政憲の供人(足軽)の名目で下田へ行ってロシア人と接触してロシア語を学んだ。企画力に富んでいただけでなくきわめて向学心、好奇心の強い行動力に富む男だったのである。


 その後は郷里と江戸・浅草天王町に出した店を往復しながら家業に専念し、そのあいまに英語を身につけていったが文久3年(1863)薩英戦争で意外な活躍をすることになった。
 生麦事件に対する賠償金要求を拒否されたイギリスは報復措置をとることにし、艦隊7隻をひきいて錦江湾に侵入、薩摩と戦って引き分けに終わったが、その戦後処理のときである。
 会話はともかく日本文を正確に読める者がいなかったためオランダ語、ロシア語、英語の3ヵ国語をマスターして教養もある卯三郎に白羽の矢が立ち、卯三郎は旗艦ユーリアラス号にのりこんだ。
 大久保利通からの使いが来て英代理公使ジョン・ニールに停戦を申し入れてほしいと頼んできたからだ。大久保は一介の町人にすぎない卯三郎にこの大役を依頼したのである。
 結局、薩摩側が全面的にイギリス側の要求をのんで和睦し、卯三郎は捕虜になっていた薩摩藩士・五代才助(友厚)と松水弘安(寺島宗則)をひきとった。2人が洗脳されてイギリスのスパイになったという噂が立って身が危険になると郷里の自宅や親類の別荘に2人をかくまうという侠気をみせることになったのである。
 この経緯は福沢諭吉が『福翁自伝』にくわしく述べており、卯三郎を「其身分に不似合な有志者である」と褒めている。
 清水卯三郎は明治43年(1910)1月20日に82歳の生涯を閉じた。墓には「しみず うさぶらう」と平仮名論者らしく平仮名で俗名が彫られている。
 こうした生涯の業績をふりかえってみると卯三郎はたしかに「有志者」であった。
 官界民間を問わず日本人は自分しか愛さない者が多いが卯三郎は同胞のために一銭にもならない平仮名の普及に力を入れ、なによりも日本を無私の心で愛していた。これが肩から力のぬけた国際人であり、権力も名声も望まないこうした爽快な男は現代の日本には稀有の存在になってしまった。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『日本名産事典』(日本図書センター)など多数。
ご意見・ご感想などは
hidequii@yahoo.co.jpまで。



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