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第26回 都市計画のあり方
●北海道発展の基礎をつくった島義勇●
文/撮影 泉秀樹



島 義勇

 慶応4年(1868)1月3日の鳥羽・伏見の戦いではじまった戊辰戦争は明治2年(1869)5月18日、函館・五稜郭を拠点とした幕府軍が降伏して終った。
 同年7月8日、明治新政府は官制を二官六省に整えた。
 二官とは太政官と神祗官、六省とは民部、大蔵、兵部、外務、刑部、宮内でこの官制改革のときに民部省に蝦夷開拓使が設けられて初代長官に鍋島直正(閑叟=前佐賀藩主)が任じられ、8月15日には蝦夷は「北海道」と改称された。
 が、鍋島長官は就任1か月余の8月25日、高齢病弱で現地へ赴任できないことを理由に辞任して東久世道禧が二代長官に就任し開拓使は民部省から太政官内に移された。
 函館、根室、宗谷に「出張所」が、石狩は銭函【ぜにばこ】に「仮役所」が設けられて北海道全域がいよいよ本格的に開発されることになった。
 銭函だけが「出張所」で「仮役所」だったのは石狩・札幌に本府(首府)を建設することになっていたからであり対ロシア政策の一環としても完成は急を要した。
 その札幌本府建設を担当したのは開拓主席判官・島義勇【しま よしたけ】である。
 義勇は佐賀藩士・島市郎右衛門(三百石)と妻・つねの長男として文政5年(1822)9月12日佐賀城下・精小路(佐賀市与賀町)に生まれた。
 9歳のとき藩校「弘道館」の蒙養舎【もうようしゃ】(小学校)に入り、23歳まで学んで弘化元年(1844)12月に家督を継いだ。藩主・鍋島直正が期待をよせる俊才であったという。
 義勇は諸国を遊学して水戸の儒者であり勤皇の学者であった藤田東湖らと親しく交際し、帰国して弘化3年(1847)に物頭、翌年には弘道館目付、藩主・直正の外小姓に任じられた。
 安政四年(1859)9月、35歳になっていた義勇は直正の命を受けて蝦夷地巡察に赴く函館奉行・堀織部正【ほりおりべのしょう】の小姓として蝦夷地の海岸線のすべてと樺太を巡見し『入北記』という絵入りの記録を書いて「蝦夷通」になった。
 その後の義勇は御蔵方組頭(出納係)や佐賀藩の飛び領地である長崎港にある香焼島派遣隊長、藩軍艦奉行、下野鎮圧軍・大総督軍監などを歴任し、明治になると「蝦夷通」をもって開拓判官に任じられたのである。
 明治2年(1869)10月(新暦11月)極寒と積雪に苦しみながら義勇は札幌市街地域の区画を決めて官舎や倉庫などの建築にとりかかった。
 これより先、神祗【じんぎ】官によって開拓守護神として大国魂神、大那牟遅神(大国主命)、少彦名神の三神がまつられることになり開拓長官・東久世はこの三神の霊代を品川港からイギリス船テールス号に乗って函館まで運んだ。義勇はこれを背負って原生林の悪路を銭函まで運んで仮安置し12月3日には札幌に移してやがて社地として決められていたコタンベツの丘(円山・札幌市中央区宮ヶ丘)の麓にまつられることになった。これが札幌神社と命名されてのちに北海道神宮となった(のちに明治天皇も合祀)。明治政府はまず三神を北海道の本府建設と開発の精神的な拠りどころに据えたのである。


 そして同年11月12日に本府の縄張り(都市計画)が決まると官邸、倉庫、病院などの建設が進められ札幌の原生林に人々が集まってきて活気があふれた。
 義勇は南北基線の大友堀(創成川)と東西基線の銭函道(南一条道り)が交叉する橋(創成橋)を本府の中心に定め、その周囲には銭湯、旅館、飲食店や商店などが次々に開業した。
 3百間(約540m)四方の本府用地を画し、南北を北六条から南七条、東西は東三丁目から西九丁目までとして60間(108m)ごとに幅11間(19・8m)の道路で仕切り、北西部に官庁と学校、北東部に官営工場、南西部は町屋と住宅、水運の良好な南東部には流通と宿泊施設を置く計画で京都と佐賀城下町を混血させたような市街で基盤目に整然と区画されたみごとな都市設計であった。義勇自身が「他日五州第一の都」(やがて世界一の都になるだろう)といっている。

 しかし、工事は進まなかった。
 食糧が不足していたからである
 内地から調達するのだがその米を拠出することになっていた盛岡藩が凶作で予定の一万石が千二百余石しか送ってこない。大蔵省は品川から千三百石俵を送ろうとしたが船が難破して米は届かなかった。義勇は場所請負人制を廃して非常用の米まで集めて食糧を確保しようとした。
 これに加えて役所の縄張り争いがつづいた。石狩は兵部省の管轄下にあったため二重支配の形になってことごとく開拓使は兵部省と対立して開発を妨害し合うことになったのである。
 義勇は上司の東久世とも対立したようである。
 明治3年(1870)1月までに義勇が予算の金を使い果したため東久世は上京して太政官に大幅な追加予算を組むか義勇をクビにするかを要請することになった。
 できたばかりの明治新政府に金があるはずがなかった。太政官は義勇を罷免することにして黒田清隆を開拓使次官に、岩村道俊を主席判官に就任させることにした。
 義勇は強引すぎた。
 上司の東久世を無視して東京の太政官に直接談判したり、1年分の予算配分を考えないで3か月で使い果してしまったり、北海道開拓の基本コンセプトをつくった松浦武四郎を通して兵部省の支配を排除しようとしたり、非常時の備蓄米を消費してしまったり、他にも岩内炭鉱経営や物資の調達、人足の募集などに独断専行したきらいがあって「悍馬(気性の烈しい馬)之御し難き」(開拓使判官・大橋慎の言葉)とまで評された。東久世が「駑馬」(ダメな馬)といわれるほど無能であったことも響いて結局義勇は明治3年(1870)1月19日付をもって帰京を命じられた。
 しかし義勇は解任されたにも拘らず功績を認められて4月2日には官位が一等あがって大学少監となり、秋田県令(県知事)を勤め、やがては明治天皇の侍従職にも名前があげられた。政府内部でも朝廷でも義勇は高く評価されていたのである。


 とりあえず小さいながらも核になる集落ができた札幌は広大な都市に成長してゆくことになった。
 スケールの大きな構想を実現してゆくときは明確なマニフェストと周囲との軋轢を恐れない強烈なリーダーシップの牽引力が必要で、そのリーダーが蒔いた種子は次代の者が着実に育ててゆかなければならないが、それが着々と実現されていた。
 明治3年9月2日、かつて長官を勤めた東久世は巡視の途中に立ち寄った札幌の建設の息吹に満ちている様子を見て「規模之広大ナル所感賞也」と日記に記録している。自分がクビにした義勇の構想が実現されていることに感動して褒めているのである。原野のなかにわずか半年ほどでスケールの大きい本府札幌の骨格を創造して北海道発展の基礎とした義勇の功績は大きい。
 義勇は明治7年(1874)江藤新平が起した佐賀の乱に加わって敗北し、鹿児島まで逃亡したが捕えられ52歳で斬罪に処せられた。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『日本名産事典』(日本図書センター)など多数。
ご意見・ご感想などは
hidequii@yahoo.co.jpまで。



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