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第27回 財政改革と経済担当大臣
●松平乗邑の業績●
文/撮影 泉秀樹



 享保7年(1722)八代将軍・吉宗は松平乗邑【のりむら】を大坂城代に抜擢した。このとき乗邑は38歳で実績はほとんどなかったのだが吉宗は唐突にこの人事を行ったわけではない。吉宗の脳裏をよぎった事件があったからだ。
 享保3(1726)年5月1日、江戸に大火があった。乗邑は自分の藩邸への類焼などには見向きもせず、家臣の消火隊を率いて浜御殿の防火に当たった。当時の乗邑は山城・淀藩主で幕府の役職についてはいなかったけれどもその懸命な態度が吉宗の心をとらえたのである。
 他にも乗邑の冷静沈着さを物語るエピソードがある。
 元禄14年(1701)3月14日、江戸城内の松の廊下で赤穂藩主・浅野内匠守長矩【あさのたくみのかみのりなが】が吉良上野介義央【きらこうずけのすけよしひさ】に斬りかかる刃傷事件を起こした。集まっていた譜代大名の控室は騒然となった。そのとき乗邑もすぐ近くの控室にいたが「慌ててはいけない」と説いたという。わずか16歳である。
「松平左近将監乗邑はことに才かしこく。何ごとも滞りなくつかふまつりしをもて。はやくより御けしきにかなひ。宿老にのぼせられしに。乗邑また国家の為に身をなげうち。十余年の間ひとり国用【くにのよう】を掌【と】りて。いささかも私なし」(『有徳院殿御実記』付録巻六)
 この数行の表記の通り「才かしこく」「何ごとも滞りなく」吉宗のもと、数ある重臣のなかで冷静で沈着な乗邑は注目に値する働きを見せるのである。

 乗邑の先祖は三河・大給【おぎゅう】(愛知県豊田市松平町)松平氏の本家であり代々幕府の重職についた者が多かった。
 乗邑は江戸幕府中期の老中・松平乗春の長男として生まれた大給・松平氏の嫡流である。幼名は源次郎といい、のちに乗益を名乗って文禄3年(1690)11月10日には5歳で遺領を継いで唐津藩主となった。
 文録4年2月9日、唐津を改めて志摩・鳥羽城主となり以後、宝永7年(1710)鳥羽を転じて伊勢・亀山、山城・淀の各藩主をつとめる。享保7年に大坂城代、享保8年(1723)には老中となり、5月1日淀を改めて下総・佐倉に移封された。異例の出世でありその優秀さは世に響いていたのである。

 たしかに乗邑の老中任命は異例だが、しかし、吉宗にとっては何より実現させたい人事であった。
 その証拠に吉宗はまず御三家に使者を送った。紀伊、水戸両家には老中を直接派遣してこのことを説明させた。
 くりかえすが乗邑は老中に任命される前年まで主要な職に任ぜられていなかったため老中職就任を前に形式を整えるために半年ほど大坂城代を勤めた。
 例えば京都所司代・松平忠周は乗邑より歳も上で役職歴も長いが吉宗はあえて乗邑に老中を命じた。吉宗にとってそれほど乗邑は大事な存在であり、御三家に頭を下げて了解を求めても得たかった片腕なのである。
 老中となった乗邑は勝手掛は水野忠之に任せて主に行事・儀礼や法の整備にあたることになった。
 そして元文2年(1737)乗邑が勝手掛老中に(大蔵大臣)就任したときは幕府の財政は苦しく困難をきわめていた。
 飢餓救済資金として5割以上の損害を受けた大名や旗本に総額30数万両におよぶ金を貸し付けて不良債権化していたし幕府直轄領への救済費、米価下落対策費などが嵩んで莫大な支出を強いられていた。守旧派の抵抗をおさえこんでこの流れをくいとめられるか否かが乗邑の腕にかかっていたのである。
 乗邑の腹心で「胡麻の油と農民は絞れば絞るほど出るものなり」といった勘定奉行・神尾春央がこれにあたった。
 春央は前の年に納戸頭から勘定吟味役になったばかりでこれもまた異例の抜擢だった。


 乗邑が春央とともにとりあげたのが年貢収納の引きあげであった。
 当時の年貢の徴税法は「定免法」【じょうめんほう】だった。
 定免法とはその年の作柄を見て年貢率を決める「検見取法【けんみとりほう】」(畝引【うねびき】検見法)であったが、それを一定の免率(税率)にしてしまったのである。
 これは10年間の米の収穫高の平均値から年貢高を決める。考え方によるが豊作・凶作にかかわらず一定の率で徴収するから豊作時の農民にとってはありがたい課税方法である。これによって検見役人がワイロで税率を下げることもなくなり農民側としても役人の接待などしなくてもいいようになった。ただし幕府がこの法令施行と同時に税率を上げたことに人々は不満を抱いた。
 次に「有毛【ありげ】検見法」である。これこそが松平乗邑や神尾春央たちが考え出した新しい課税法であった。
 春央は毎年の作柄、出来高を調べて農民の余禄を見逃さない課税をした。所得税型の課税で百姓は茶碗一杯の誤差もなく年貢を取られたという。春央はさらに課税の対象ではなかった入会地や河川敷、山林にも「新田」と見なして年貢を課した。
 享保17年(1732)の大飢饉、その前後の米価暴落のため幕府の金銀蓄積もほとんど底をついた。
 が、結果、春央が勘定奉行になった元文2年(1737)乗邑が勝手掛老中に任命された年、倹約令とあいまってこの過酷な課税が幕府の年貢収入を167万石も増やした。前年よりも34万石の増収である。
 さらに享保17年の飢饉対策費として諸大名に貸し付けた金も督促して寛保2年(1742)には完納させた。
 こうした増収、回収によって延享元年(1744)には幕府の懐に180万石が入った。この石高は江戸時代を通して最高記録であった。
 税を納める側には痛みを強いるイヤな人物だが財政担当大臣としてはオリジナリティに富む抜群の人物であることを認めざるを得ない。
 乗邑はこの功労をもって延享2年(1745)に1万石の加増を受けた。


 幕府の財政再建につくした松平乗邑は延享2年9月、九代将軍に吉宗の長男・家重が就任した直後に突然罷免された。その理由について『徳川実記』には「秘して伝へざればしるものなし」と記されているだけである。乗邑が田安宗武を九代にたてようと策謀して罰せられたともいわれる(『続三王外記』)が確証はない。
 乗邑は翌10月10日、加増地および西ノ丸下の役宅没収のうえ隠居・蟄居に処分されて翌3年4月16日、不遇のうちに61歳をもって没した。
 しかし、乗邑は吉宗の期待以上の働きをしたことは間違いない。名裁判で知られる大岡越前守忠相が複雑な訴訟を何日もかかって調査して経過説明しようとすると乗邑はその半分も聞かないうちに結論を指摘したという。
 また、神尾春央は乗邑についてあの人ほど巧みに人を使う人はいないといったという。いずれにしても乗邑なしでは享保の改革は実現しなかったことは間違いないだろう。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『日本名産事典』(日本図書センター)など多数。
ご意見・ご感想などは
hidequii@yahoo.co.jpまで。



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