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第28回 日本人が独創した更正施設
●鬼平と人足寄場●
文/撮影 泉秀樹



 「火付盗賊改【ひつけとうぞくあらため】・長谷川平蔵である。神妙にいたせ!」
 松本幸四郎や中村吉右衛門が演じてきた『鬼平犯科帳』(池波正太郎)の「鬼平」こと長谷川平蔵(宣以)は三河以来の旗本の家に生まれた。
 長谷川本家は三方ヶ原の合戦や関が原の合戦で戦功をあげて越後・高田に知行地1750石を所有したが平蔵は庶流に生まれたため上総(千葉県)山辺・武射(千葉県山武【さんぶ】郡)2郡を領地とする400石取りであった。足高(役職手当)が600石あったから計1000石である。
 平蔵は延享2年(1745)江戸・築地の湊町生まれだといわれる。寛永7年(1795)5月19日に50歳で死去したという史料(『寛政重修諸家譜』)からの逆算で、父は火付盗賊改、京都町奉行を勤めた平蔵宣雄、母は正妻ではなく「家女」であった。「家女」とは上総の領地から江戸に出て長谷川家に奉公していた身分の低い女性だった気配である。
 23歳で将軍・家治に遅いお目見えを済ませた平蔵が31歳で西城【さいじょう】御書院番の番士になったのを振り出しに進物頭【しんもつがしら】、徒士頭【かちがしら】から御先手弓頭などを経て父も任じられた火付盗賊改役(警視総監)に就任したのは天明7年(1787)9月19日であった。
 天明3年(1783)の大飢饉以来、地方で食えない者が江戸へ流れこんで無宿者となったり徒党を組んだり物乞いになったりひどい不況下で犯罪を犯す者が激増していた時期であり、これに対して平蔵ひきいる与力10騎と30名の同心の働きはめざましかった。
 「長谷川平蔵と云ふ者に命じて、盗賊を捕えて死刑に処し、僅の間に600人の首を刎【は】ねたりと云ふ。故に下々の者も、此の政略に驚き恐れ(中略)市人恐れ戦きたり」(『清陰筆記』)佐久間長敬)というからすさまじい。
 本所二ッ目(東京都墨田区菊川3の6)に住んでいた若いころ放蕩無頼の生活を送った平蔵は「本所の銕」(幼名・銕三郎からとった仇名)と呼ばれていたくらいだから裏社会にも精通していたし岡っ引や目明しを使ったり、みずからも密偵として「笠を深く冠りて」パトロールに出たりして「よく盗賊を捜捕し奸を摘し伏すを発すること神の如し」(『長谷川平蔵逸事』)とたたえられた。

 犯罪の摘発の仕事に加えて老中・松平定信から「加役人足寄場取扱」に任命されたのは寛政2年(1790)2月19日のことである。
 先にも述べたように人別帳に記載されていない無宿が増えつづけて犯罪者(あるいは犯罪予備軍)が江戸市中いたるところに横行していたからこれを早急に取り締る必要に迫られたのである。
 人足寄場の造営を建議して認められ、責任者になった平蔵は隅田川河口にある佃島と石川島(石川大隅守正勲屋敷)の間の葭の密生した低湿地帯1万6030余坪(約5万3000平方メートル)を浜町河岸から自然に突き出していた鉄砲洲三俣(股)洲の土で埋め立てて整地することにした。
 寄場の運営資金は初年度だけ米500俵・金500両だったが次の年から米300・金300に減らされた。これではとてもまかなえないとわかると平蔵は銭相場で利益をあげた。
 幕府から借り入れた小判10万両で価値が暴落していた銅銭を買い、商人には商品を値下げさせ銅銭の値上りを待って売却して1両あたり500文ずつの利ざやを稼ぐ、という金融業者顔負けの賭博的な財テクをやって大金を稼ぎ出した。
 またのちに石川氏が赤坂・山王近くに屋敷替えになったあとの土地も使えることになって一部は有力商人に石や薪の置場として借地代をとってこれも運営資金にあてた。頭の働きが機敏的確だったのだ。


 人足寄場で平蔵は収容した無宿人の男には柿色に水玉を染め出した制服を着させて大工、左官、屋根葺き、鍛冶、表具、紙漉きや蝋燭、足袋、草履、桶、炭団【たどん】、竹笠つくり、貝細工にちんこ切り(タバコの葉刻み)や髪結いなどを、女には洗濯、裁縫、雑巾刺しに機織り、藁縄つくりなどの「手業」(技術)を仕込んだ(のちに油絞りで利益をあげた)。
 まともに立ち直った者のうち江戸で商売をしたい者には土地や店舗を、農民には田畑、大工になる者にはその道具を支給するなどした。
 寄場からの逃亡は斬首、博奕も死罪、不精(怠ける)や命令違反は遠島ときわめて厳しい規律に縛られてはいたが、人足寄場は病気の療養所をそなえ、喫煙も煮炊きも冬の炬燵もゆるされた世界にも類例のない社会復帰のための温情あふれる矯正施設であった。また作業に応じて3分の2の労賃が払われ、3分の1天引きされて積立てられ、出所のときに更正資金として支払われた。
 月3回三のつく日の暮六つ時から五つ時まで神道・仏教・儒教を混ぜて仁義忠孝や因果応報などの教訓や逸話をわかりやすく説く心学の大家・中沢道二の講義も受けさせた。寄場人足はその講話に感動してよく涙を流したといわれ社会復帰する者の精神的な支えになった。
 前非を悔いて正業に就いた者が年200名ほどいたというから人足寄場設置はその目的を達して大成功したといえよう。
 平蔵は寛政7年(1795)5月10日に50歳で病没(病名・死因不明)したが、死後77年を経た明治5年(1872)日本政府に法律顧問として招聘されて来日したフランス人ジョルジュ・ブスケ(法学者)が人足寄場を訪ねてその様子を記録している。
 「オガワ(大川)の河口にあるスクダ・シマ(佃島)には、我々の禁錮重労働の刑にほぼ等しい懲役刑に処せられた者が収容されている。訪問者はまず木造の建物で囲まれた四角形の大きな中庭に入る」「中庭の周りには種々の作業場が並んでいる。それらの各々では、被拘禁者の力、年齢および罪状の大小に応じ、彼らの今までの知識にできるだけ適した違った仕事をしている」「最初の作業場では、40人ほどの14歳ないし20歳の青少年が竹の枝を割いて扇にするためのきわめて細い竹片を作っている。もっと遠くでは(中略)杵で米をついている」「同僚のために衣服を仕立てている裁縫師がいる。この服はゆったりしたズボンから成っており、夏になると簡単な腰帯と上着とに取り替えられる。これらはすべて赤味をおびた汚れにくい綿布でできている」
 ブスケは人足寄場の独創性と先進性におどろき、かつ高く評価している。
 「労働にはきわめて僅かではあるが報酬が与えられ、給料を積み立てられて刑を終えてから免囚として職業を得るために用いられる。各受刑者はそこを出るときには職を身につけており、我々〔フランス〕の被拘禁者の境遇よりも遥かによい境遇である。〔我国では〕企業者は労働者を養成することを心がけず受刑者の労働を搾取するのであり、その者が監獄を出るときには職をもっていないのである」(『日本見聞録』ブスケ著/野田良之ほか訳)





いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『幕末維新なるほど人物事典』(PHP)など多数。
ご意見・ご感想などは
hidequii@yahoo.co.jpまで。



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