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第29回 外交とはなにか
●プチャーチンと対決した川路聖謨【としあきら】●
文/撮影 泉秀樹



川路聖謨

 川路聖謨は享和元年(1801)4月25日、豊後(大分県)日田代官所の下級役人であった内藤吉兵衛の次男として生まれた。母は代官所手代・高橋小大夫の女で聖謨のすぐ下の弟・松吉がのちの外国奉行・井上清直である。
 吉兵衛は幕府に仕官することを夢みて江戸に出て、幸運にも徒士に採用されて牛込の徒士組屋敷に住んだ。
 聖謨は成長するにつれて俊英ぶりを見せはじめ、それを小普請組・川路三左兵衛(九〇俵3人扶持)に見込まれて養子になった。文化10年(1813)には元服して川路家の当主となり18歳で支配勘定出役【しわつやく】に採用された。
 優秀だったから文化6年(1823)1月には勘定奉行の配下である勘定評定所留役に登用されて旗本になり、ひきつづき吟味物調・当分助【ぎんみものしらべ・とうぶんたすけ】という職に就いた。
 この吟味物調であった天保6年(1835)但馬・出石家中(兵庫県)の天保期最大の御家騒動といわれる老中首座・松平康任【やすとう】がからんだ「仙石騒動」の審理にあたって判事として明快公平に処理して有名になり、幕府の財政を監督する勘定吟味役に取り立てられた。九〇俵3人扶持から10倍近くの八〇〇石(うち三〇〇石は役高)取りに立身したのである。
 聖謨は交遊関係も当代一流の知識人が多かった。渡辺崋山、藤田東湖、間宮林蔵などと交際して見聞をひろめ国際情勢もよく理解しており佐渡奉行、小普請奉行、奈良奉行、大坂町奉行、公事方【くじがた】勘定奉行などを歴任した。
 
 嘉永6年(1853)6月3日アメリカのペリー艦隊が浦賀(神奈川県)にあらわれて開国を迫り、7月18日にはロシア使節・極東艦隊司令長官エヴフィーミー・ワシーリエヴィチ・プチャーチン(Evfimii Vasilie-vich Putyatin=ニコライ1世の侍従武官・伯爵)が軍艦4隻をひきいて長崎に来た。折から聖謨は海防掛を兼ねて品川台場の築造を指示していたから老中・阿部正弘は急拠老中代理として長崎へ出役せよと命じた。
 同年12月14日長崎に到着した聖謨はプチャーチンと会見した。
 プチャーチン付きの秘書官として同行していた作家で『日本渡航記』の著者であるイワン・ゴンチャロフが聖謨のことを「45歳位の、大きな鳶色の目をした、聡明闊達な顔付の人物が現れた」と記している。
 そして日露交渉がはじまった。
 プチャーチンはただちに通商を開始するべきだと主張し、聖謨が得意の「ぶらかし(引きのばし)策」で応じ、つづいて国境問題に入った。
 聖謨はウルップ島の中立と択捉が日本の領土であると主張、プチャーチンは聖謨が論拠にしている『遭厄【そうやく】日本記事』(『日本俘虜実記』ゴロウニン)は公式の資料ではないと反論して結論が先延ばしにされた。樺太については駐留しているロシア守備隊を撤退させたのちに実地調査して国境を決定しようということになった。
 第2回は樺太問題から入り、聖謨は北緯50度を国境としたいと主張、プチャーチンはロシア人は北緯50度以内に炭鉱を開いているし日本人の住んだ痕跡がないから同意できないとこたえ、この日も実地調査をして線引きしようということになった。
 また、択捉【えとろふ】島は折半しようとプチャーチンが提案し、聖謨は古記録によって千島列島すべてが日本領土であると応じて、結局、国境問題は進展なしに終わった。
 通商問題も急速には決定できないとする聖謨にプチャーチンは国際貿易振興の重要性を説いた。何もかも平行線だが、しかし、聖謨は幕府が派遣する日本の調査隊と紛争にならないように樺太の守備隊に「聊【いささ】かも無礼これ無き様、厳重申し付け」る「諭告書」を出してくれといってプチャーチンに承知させている。第3回会議はプチャーチンは鎖国の弊害を述べてロシアのフリーゲート艦一隻で長崎の防備を征圧できると威圧した。聖謨は負けずに言い返し、交渉に入れないまま解散した。
 条文を港内に停泊している旗艦パラルダまで持ってきてほしいといわれても聖謨は軽々に腰をあげなかった。
 「御国体如何【いかが】と断りたり」と日記に書いている。プチャーチンが重ねて船中で珍しいものなどをお見せしたいから「ゆるゆると」お遊びのつもりで来て下さいというと、ようやく腰をあげて羽織、袴を着用し「巡見の格にて参る」という配慮をする。継裃【つなぎかみしも】では「御国体いささかいかがと」考えたからであり聖謨の頭のなかにはまず第一に「御国体」(幕府)があった。


 嘉永7年(1854)3月3日、再来航したペリーと幕府が日米和親条約を締結するとプチャーチンも新鋭艦ディアナ号(2000トン)を駆って再び下田に来航した。
 プチャーチンとの会談は下田・柿崎の玉泉寺で第1回の「応接」をして国境の画定や通商を論じ、聖謨は言を左右にして「考慮する」とこたえて同意をあたえず問題点は調査を行うことで解散。
 聖謨とプチャーチンの交渉はさらに何度も重ねられ、くりかえし国境と領事官駐在などについて検討して12月21日にようやく「条約書取替【とりかわ】せ候」というところまでこぎつけた。国境は「エトロフ島とウルップ島の間にあるべし。エトロフ全島は日本に属し、ウルップ全島、夫より北のクリル諸島は魯西亜に属す。カラフト島に至りては、日本国と魯西亜【ろしあ】国の間において、界を分たず、是迄仕来【これまでしきた】りの通りたるべし」(「日露和親条約」第二条)と決められた。これが最も重要な条約であった。
 昭和31年(1956)の北方領土返還問題を含む日ソ国交回復交渉のとき、農林大臣・河野一郎はソ連共産党第一書記ニキタ・フルシチョフと会談し「日本の政党内で派閥間の激しい闘争が行われている」とのべた。「与党内部の激しい紛争がモスクワでの立場をきわめて難しくさせ、問題の解決を妨げている」(10月16日)とも語った。
 首相の鳩山一郎は翌日のミコヤン副首相との会談で「わが党の中には、われわれの立場に激しく反対する吉田(茂)が率いるかなり大きなグループがある。このため、われわれはモスクワに来てから、歯舞と色丹の返還を再び提起するよう余儀なくされた。もう一度繰り返すが、われわれはこの問題を自らの意に反して提起している」(平成8年(1996)7月22日付産経新聞「旧ソ連対日交渉・秘密文書詳報」より)
 日本国内には吉田茂を指導者とする反対勢力があるから歯舞と色丹の返還をいやいや要求している、話がうまく進まないのはわれわれの責任ではないと訴えた。対するソ連側は河野・鳩山の言葉など歯牙にもかけず自国の利益を主張して止まなかった。
 当然である。外交交渉とは本来そういうものである。領土の返還を「自らの意に反して提起している」などという河野・鳩山流のやり方は売国行為である。
 聖謨のように「御国体」を重視する狡猾なすれっからしで強引で、ユーモアがあって粘り強く、それでいて品格が高く誠実でなければつとまらないのが外交である。聖謨は鳩山・河野とは問題にならないくらいみごとな外交を展開した。

 安政5年(1858)4月23日、井伊直弼が大老に就任し聖謨も5月3日に江戸城西の丸・留守居役(二〇〇〇石)という閑職に格下げされた。「安政の大獄」である。
 やがて聖謨は隠居して詩歌を楽しむ生活を送るようになったが江戸の根岸・御行の松にあった屋敷で短銃で咽頭部を撃ち抜いた。これが聖謨の「御国体」(幕府)に対する節操であり日本人はじめてのピストル自殺であった。慶応4年(1868)3月15日、江戸城無血開城の日の朝である。享年68歳。





いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『幕末維新なるほど人物事典』(PHP)など多数。
ご意見・ご感想などは
izmi3016@ybb.ne.jpまで。



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