bannerkoramu.gif


第30回 地域活性化構想からの出発
●藤村彦六と樺細工●
文/撮影 泉秀樹



 「樺細工」は「桜皮細工」とも書いてどちらもカバザイクと読む。語源は樺を「加波」「加仁波」と称したこと、あるいはアイヌ語の「カリンパニ」で桜の樹皮を巻いた物という意味である。
 日本に現存する最古の樺細工は桜皮を細い糸状に切って柄と鞘に巻いた「樺巻把鞘白銀玉虫荘刀子」(正倉院蔵)でその技術は古代からあったのだが外国から伝来した技術か日本に独自に発生した技術かはまだ解明されていない。
 製法はまず「かばはぎ」(桜皮を剥ぐ)からはじまる。樹齢30年以上、太さ30センチメートル以上の山桜の幹の皮を樹勢の最もさかんな7月〜9月末までに採取する。山桜のオモテ皮(大判樺。斑点状の節が横に長く連続している)、ウラ皮(小判樺、山桜の若木で節が斑点になっていない)、二度皮(一度皮を剥いだあとのコルク状の皮)の3種類あって老木の深いひびの入った「ひび皮」や飴色の「飴皮」をはじめ金、銀、ちらし、ちりめん、霜ふり、赤など色や形状で用途を決める。
 あるいは型物(仕込み物、茶筒、胴乱、タバコ入れ、印籠)か木地物(細工物、箱、置物など下地の木に桜皮を貼る)、たたみ物(たくさんの桜皮をニカワで貼り固めて積層の断面の美しさを削り出す)のどれをつくるかや意匠と値段などによって用途が決められる。
 最も重要な技術は桜の皮をニカワで木地に貼ることでニカワは適度の濃さのものをうすくのばして塗る。
 桜の皮を熱した鉄ゴテでおさえてこすりつけるように木地に貼ってゆくが桜皮は熱を加えられると縮む性質があるから縮む分を計算に入れておく。
 ただし、コテの温度が難しい。熱したコテを水に漬けた一瞬の音で「チン」とはじくような音では温度が高すぎる。「ジュー」は低すぎるしその少し手前の音がいいといわれる。そのコテでまんべんなく桜の皮に加熱してニカワを乾燥させながら接着させてゆく。
 コテを使う直前に桜の皮を舌でひとなめする。唾液でほどよい湿り加減をあたえるためで唇でやる職人もいる。
 桜皮がぴったり木地に貼りついたかどうかはコテから感覚が伝わってくる。桜皮を通してニカワの状態がわかり全体の出来映えのよさは下地からじっくり手をかけないと出てこないといわれる。

 阿仁(秋田県北秋田郡阿仁町)は延慶2年(1309)に発見された銀・銅山(昭和45年閉山)である。
 阿仁から角館(仙北郡角館町)までは大覚野峠【だいがくのとうげ】(標高582メートル・現在は通行不可)を越えて檜木内村、西明寺(檜木内・西明寺は合併して現在は西木村)を経由する15里(60キロメートル)の檜木内川に沿っている一筋道(国道105号線)で11月末から3月末の冬期には2メートルや3メートルの雪が積もることはめずらしくない。
 その山のなかの阿仁から樺細工の技術は南の角館までおりてきた。天明年間(1781〜88)のことで藤村彦六という人物が伝えたといわれている。
 彦六は秋田・佐竹家の分家である角館・佐竹北家の角館城下・歩行町に住む蔵役・青山男成の次男で藤村作兵衛の養子となり定継と称した。
 天明8年(1788)御境手判役【おさかいてばんやく】を勤め、文化2年(1805)5月には台所役、同年11月26日には勘定役、さらに12月には傳役【もりやく】に任じられている。
 彦六についてはこれしか史料が残されていないのだが、なんらかの用事で阿仁を訪れた彦六は北秋田郡小阿仁村鎌沢(合川町鎌沢)の神官・御処野宥俊から樺細工の技術を伝授された。その技術は熊野の修者験(山伏)が御処野【ごしょの】家に伝え、同家はこれを秘伝としていたという。それがなぜ、どのような形で彦六に伝授されたかもわからない。
 ただ、彦六はこの秘伝を公にすれば藩の経済を活性化できると考えて角館へもどると多くの人にこれを伝えた。このことこそ「地域活性化構想」であり彦六の偉大さであった。 
 もともと北の国の下級武士、それも弱小支藩の軽輩の生活は惨憺たる貧しさで給禄だけではとても生きられなかった。石高わずか700から800石という佐竹家には藩をあげて殖産興業に励む力もなかったから彼らは貧困に追いたてられ飢えに責められて手内職をやらざるを得ない立場にあった。そのうえ元手がない。住いの周囲に自生する山桜から金を払わずに樹皮を剥ぐことくらいしか資源がなかった。
 このような惨憺たる貧乏さに加えて天明という時代は大凶作・飢饉(ケカツ)の時代であった。天明3年(1783)の大飢饉では佐竹領内全域で5万人が飢死した。彦六の伝えた樺細工は北朝鮮状態の切実な空腹感から生まれた産物であったことが理解できよう。
 彼らは懸命に樺細工に取り組んでいった。


 やがて事件が起る。
 佐竹北家七代・義文に対して「江戸の鳥越様」と呼ばれていた本家・佐竹壱岐守が印籠を所望した。文化2年(1805)のことで義文は本家に対して「見苦しき品、其の上余りに軽少」という手紙とともに印籠を献上した。大名が持つには粗末で見苦しすぎるといったわけだが、しかし、手内職として樺細工を制作していた軽輩たちにとってはこの出来事は事件どころか大事件だった。自分たちの仕事が佐竹本家に認められたことで武士としての面目をほどこしたと考えたに違いない。
 彼ら下級武士は「士」でありながら実質的には貧困と飢えに苦しむ「工」や「商」であることに屈辱的な思いを噛みしめていた。自分たちを「細工人」と呼んできたのもおそらくこんなことから生まれたように感じられる。「工」「商」の階級ではなくてわれわれは「細工人だぞ」という意識でありこの過剰な差別意識が樺細工を支えた。
 彼らは慢性的に貧困のどん底にあり、だからこそわれわれは「士」だという誇りを高すぎるほど高く持って樺細工の技術を磨きあげた。彼らは角館郊外の農民が樺細工を作ったりすると「こんなものは在郷の百姓が作ったもんだ」とさげすんだという。
 そして文化11年(1814)佐竹の本家の九代・義和が義文に樺細工を江戸参勤のみやげ物として所望した。これには角館をあげて感激した様子で軽輩たちの喜びはいかばかりであったろうと想像できる。

 こうして彦六がもたらした樺細工は文化年間からしだいに世に認められはじめたものの角館は再び天保4年(1833)に飢饉に襲われた。「巳【み】ノ年のケカツ」でありこの冷害と疫病によって大きな打撃を受けた角館は立ちなおることができないまま明治維新を迎えた。
 武士は「士」という身分を失ったうえさらに困窮してそれまで「内職」であった樺細工を「本業」として生きなければならなくなった。明治になっても樺細工は一貫して誇り高く貧しい元・下級武士の仕事として続けられて現在では日本の樺細工の100%近いシェアを独占している。
 彦六の「地域活性化構想」は創意あふれる知恵と工夫と技術で山桜という資源を活用して地域経済を活性化し自立させて産業そのものを文化・芸術にまで育てあげたみごとな実例であった。





いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『幕末維新なるほど人物事典』(PHP)など多数。
ご意見・ご感想などは
izmi3016@ybb.ne.jpまで。



バックナンバーへ戻るspacer新風トップへ