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第31回 理想の都市の建設を目ざして
●大友宗麟の「無鹿【むしか】構想」●
文/撮影 泉秀樹



 大友宗麟【そうりん】(義鎮【よししげ】・宗滴【そうてき】)は享禄3年(1530)1月3日、豊後・府内(大分県大分市)に生まれた。父は豊後守護であり鎮西探題【ちんぜいたんだい】であった大友義鑑【よしあき】、母は周防・長門(山口)、豊前(福岡)、安芸(広島)、石見(島根)の守護を兼ねる大内義興【よしおき】の女【むすめ】(義隆の姉)だから名門中の名門の子として生まれたことになる。
 といっても、宗麟はスムーズに家督を継いだのではなかった。
 大友家には宗麟と異母兄弟である塩市丸がいたためどちらを家督とするかで家臣が二分され、天文19年(1550)2月20日、義鑑と異母と塩市丸が襲われた。義鑑は重傷を負い、異母と塩市丸は殺害された(二階崩れ)。やがて義鑑も傷がもとで亡くなってしまうが、亡くなる前に宗麟は義鑑に自分が後継者になることを納得させた。
 この翌年の天文20年(1551)9月19日、22歳の宗麟はかねてから招聘していたフランシスコ・ザビエルと会う。
 槍隊500名をならべてザビエルを迎えた宗麟はただ鉄砲と火薬、大砲や西欧の文物を求めていたのだったが、意外な結果を得た。キリスト教の教義について「いま聴聞せし説より高き説はなかるべし。また、この説よりよく道理に合したる説はなかるべし」と感じてそれがのちに宗麟の人生のありかたを決定することになったからである。
 宗麟はザビエルが残していった宣教師たちの布教活動を支援した。豊後領内の布教を許し、教会を建ててハンセン病患者を収容する病院を建てた。
 宗麟の保護のもとでキリスト教は次第に普及し、同時に当初の狙い通り貿易が栄えて武器弾薬が大量にもたらされその製法まで知ることができた。宗麟が九州を治めることができたのは鉄砲や石火矢(大砲)などの新兵器を獲得したことによるともいえる。
 ただし、妻イザベル(実名不明)はザビエルから大きな影響を受けた宗麟を批判的な目で見ていた。イザベルは国東【くにさき】郡(大分県国東郡安岐町)に大きな勢力を持つ豪族であり奈多八幡・大宮司の女で熱心な仏教徒だったからである。

 宗麟は、肥後・菊地氏、筑前・少弐氏をはじめ佐賀の龍造寺、毛利に内応した高橋鑑種【あきたね】ら有力武将をつぶしたりおさえこんだりして天文23年(1554)8月には肥前守護職となり、永禄2年(1559)6月には豊前、筑前、筑後3か国の守護職に就任、最終的には北九州6か国の守護となって同年11月九州探題に任じられた。
 宗麟の周囲には優秀な武将がそろっていた。
 まず戸次鑑連【べつぎあきつら】(のちの立花道雪)、臼杵鑑速【うすきあきすみ】、高橋紹運である。鑑連は紹運の長男・統虎【むねとら】を義子に迎えているがこの統虎はのちの立花宗茂で筑後・柳川(福岡県)の藩祖になった。
 ほかにも田原宗亀、田北紹鉄、田原紹忍、志賀道輝らが宗麟を支えた。群を抜く知略と武力に秀れた猛者ばかりである。
 一方で宗麟は中国や朝鮮との貿易で巨利を収めている博多の豪商・島井宗室や祖父の代から石見銀山の開発や中国・朝鮮をはじめ西洋諸国と貿易をやっている神屋宗湛【そうたん】との交遊も忘れなかった。宗麟自身も朝鮮や対明貿易で大きな利益をあげていた。さらには多種多様な美術品を求めたり能や蹴鞠、犬追物【いぬおうもの】や鷹狩りや茶や茶道具を楽しんだ。豊後一宮・柞原【ゆずはら】神社(大分市八幡区)を援助したり臨済禅に親しんだりもした。武将であると同時に当代一流の経済に明るい知識人・文化人でもあったということである。

 九州の覇者となった宗麟に圧迫されていた薩摩(鹿児島)の島津義久が起死回生を期して日向に侵攻したのは天正5年(1577)12月である。
 野尻城・高原城(宮崎県西諸県郡)に拠っていた伊東義祐・義益父子は豊後に逃れて宗麟を頼った。義益に宗麟の孫女・阿多喜が嫁いでいた関係である。
 翌天正6年(1578)春、6万の軍団を率いて日向に入った宗麟の後継者・義統はただちに延岡城の土持親成を踏みつぶした。
 この勝報を喜んだ宗麟はすでに隠退していたにも拘らず10月に2人目の妻・ユリア(最初の妻イザベルの姉)と甥の田原親虎、イエズス会日本布教長フランシス・カブラルと宣教師ルイス・デ・アルメイダや2人の修道士と300の将兵をひきつれて出陣した。
 アルメイダは貿易商人だったが全財産を投げ打って宣教師になり府内で日本最初の西洋医学にもとずく内科・外科病院を創建した温厚な人物だが、カブラルは上から一方的にキリスト教をおしつけるヨーロッパ型の宣教体制を固めようとしていた武闘派タイプの宣教師で独善的で強制的、性急で激越な男だった。
 つまり日向への出兵も教線を拡大しようとするカブラルが強く勧めた作戦であったかもしれない。
 すでに洗礼を受けてフランシスコという洗礼名を受けていた宗麟は御座船に白地に真紅の十字を染め抜いて金糸で縁取りした緞子【どんす】の大将旗を揚げた。宗麟自身は黒いビロードのカルサンを穿いて黒ラシャ製の鍔広の南蛮笠(帽子)をかぶっていた。まったく新しいファッションであり他国に新しい秩序をもたらすつもりであった。
 宗麟は日向の武士をすべてキリスト教に改宗させようと真面目に考えていた。そしてそのために理想の都市を築かなければならないと考えていた。
 その理想郷に無鹿(務志賀・宮崎県延岡市)が選ばれた。ポルトガル語の「musica」(音楽)からとった地名だといわれる。
 そこに宗麟がつくろうとした理想の都市がどのような計画であったかという詳細な史料は残されていないが、たぶん将兵のいる城と立派な教会がつくられ、セミナリオや貧者や病んだ人々を救済する施設をそなえた城下町は西欧文明に染められた制度で運営される構想であったろう。賛美歌やヴィオラの美しい音色がどこからともなく聞こえてくる文化の香り高い豊かなコミュニティーが築かれてゆく。
 この人生最後の遠大な夢について、宗麟は自分の願いは無鹿にキリシタン都市を建設して妻・ユリアとともにそこに住むことだとカブラルに語ったという。一人の仏教徒もいないキリシタンだけの町で政治、経済、法律その他のすべての制度はポルトガルに倣いたい。そして300人の信徒を移住させキリストの十二使徒にならって12人の司祭を置きたい、と。

 宗麟は土持(延岡市)に上陸し、無鹿の丘を本営としてその丘の北を流れる北川沿いの教会と住院を建てる土地をカブラルらにあたえた。
 カブラルは毎日ミサを行い、宗麟は告解して聖体のパンを拝領し、教理を聞いて祈祷【オラショ】をとなえた。
 しかし、宗麟の夢はあえなくついえた。
 士気を失っていた宗麟の4万3千の軍が耳川の河口の戦場で島津に敗れて総崩れになったからである(耳川の合戦)。
 「豊後の兵は不意を打たれ、2万を超ゆる死者を出して全軍敗走し、フランシスコ王も辛うじて豊後に退くことを得た」(『イエズス会日本年報』)という。
 宗麟の夢は消えた。消えたが、しかし、宗麟はこのときたしかに「キリスト教的な共和国」(civitas chris tiana)を建国したいと考えていた。ついえてしまえば滑稽にも感じられるが、そうした壮大な夢を見てその実現に挑む能力を現代人は失ってしまったのではないだろうか。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『幕末維新なるほど人物事典』(PHP)など多数。
ご意見・ご感想などは
izmi@s4.dion.ne.jpまで。



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