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第32回 いまさら信長、されど信長
●破壊と創造と自由競争の世界をつくる●
文/撮影 泉秀樹



織田信長肖像

 戦国時代。
 京都に旗を立てるために日本中の武将は全知全能を傾けた。それは多くの名将のなかから一人だけが勝ち残る苛酷なサバイバル・レースであり誰もが多大な必要経費と犠牲を払う命がけの戦いであった。
 そうした厳しい戦いを戦い抜こうとして一番を走っていた織田信長にとって、どの分野に限らず天下で最も秀れた者が誰なのかは大きな問題でありなおざりにはできない問題であった。
 持ち前の好奇心もあったろうが信長はこの「誰が最高なのか」という問題を職人の世界に適用した。その技能を競わせ自由競争させることによって「天下一」の称号をあたえたのである。

 信長は元亀4年(1573)7月、京都奉行・村井貞勝に宛てに定書を出している。
 「天下一の号を取る者、何れの道にても大切なる事なり。ただし、京中の諸名人として内評議ありて相定【あいさだ】むるべき事」(『当代記』)
 天下一の称号を取ることはどんな道でも大切なことだ。ただしこれを決めるには京都の名人たちが集まって評議して決定しなければならないという定めである。
 信長の勢力がようやく畿内に行き渡り、京の町の地子銭【ぢしせん】(宅地税)を免除するなどしてより一層深く民衆の気持ちをつかんで大きな支持を得たいという時期でありそれは職人にとってもまことに魅力的な提案であった。
 その結果、鐘、釜、畳刺【たたみさし】、茶器などに秀れたものが輩出した。
 「京作紹鴎【じょうおう】時代に京都天下一西村道仁【どうじん】、名越善正なり。道仁は信長公御釜師、わが家の元祖なり‥‥‥」(『釜師由諸書』)
 「京之天下一、太郎五郎」(『津田宗及茶湯日記』)
 「その方、畳刺天下一として、信長御朱印なされ、諸公事御免許の上は‥‥‥」(『玄以法印下知状』)
 実力主義と自由競争が技術の進歩発達をうながした結果、職人たちを目ざめさせ、励ますことになって当然経済を活性化させその発展も促進したのである。
 例をあげると畳刺の天下一であった九代・石見(伊阿弥)新四郎宗珍は信長が上洛したとき内裏【だいり】修造にさいして畳大工の御用をつとめたのをはじめ安土城の大・中・小書院の広間の畳の製造を請負った。
 力のある者は誰彼を問わず抜擢する信長らしい逸話である。
 要するにフェアなコンペティションで技能を競う、という自由が社会にあたえられたということで一部の特権階級が規制の法律や地位や人間関係を利用して不当な利益を得てひそかに分配している状態は不健康であるだけでなく国家そのものを蝕み腐らせて国民を不幸にするということだ。

 信長は凄かった。
 天正7年(1579)5月に安土城(滋賀県蒲生郡)が完成すると新しい城下町にも楽市楽座の制度を採り入れた。
 これは旧制度がどんなだったかを説明するとわかりやすい。
 それまで各地を支配していた大名、領主、寺社は、自領に関所を設けて物資の流通、人の往来に「関銭【せきせん】」(税金)を課して利益をあげていた。
 たとえば京都と大坂を結ぶ淀川の沿岸にはなんと600以上の関所があった。また伊勢・桑名と日永【ひなが】の4里(16km)の間に40以上の関所があった。これらの関所すべて1ヵ所ずつに通行税を支払うのである。
 したがって物の流通も人馬の往来も分断され、時間がかかり、金がかかる。それは人々が無駄なエネルギーを使うことであり物価に関銭が上乗せされて慢性的な物価高がつづくということだった。
 また、商人たちは「座」をつくっていた。
 「座」とは同業者組合のようなものでその組織に所属している者だけが利益を得る特権を握って関銭を免除されたり組織に所属していない者を市から閉め出したりしていた。
 それは業界業種別の専売制でもありこれによって経済の成長がいちじるしくさまたげられていた。特定の人だけしか利益をあげることができない独占的な営業組合=ギルドのような閉鎖的な経済体制下では正義と自由経済を調和させることができない。
 信長はそうしたあらゆる悪しき法をなくし既得権を奪い旧体制を破壊して関所も座も取り払って民間に自由な流通と自由な競争原理を導入して新しい経済のありかたを創造したのである。
 さらに信長は「安土山下町中」という掟書【おきてがき】十三条を発布した。安土城下に移住してくれば伝馬役などの課役は免除するといった多くの特典をあたえた。
 新しい町を経済特区にするために永禄12年(1569)に京都で布告した「撰銭令【えりぜにれい】」を安土でも施行したのだ。
 要するに信長は秀れた軍人、政治家であると同時に先見性と現実性と独創性に富んだ経済人であったということでこれまで述べてきたような措置はすべてうまく行き一般庶民は快哉をさけぶような感じで信長を支持することになったのである。
 このように自由市場の基礎をつくった信長は道路がどんなに重要かも知っていた。道は経済の根幹である流通の動脈であり軍事上も利用価値が高いことを本格的に考えたはじめての為政者であったといってもよい。
 それまで道、街道は自然発生したものを拡張整備しただけであったが信長は天正4年(1576)には本街道は幅3間2尺(約6m)、脇道は2間2尺(約4m)、在所道【ざいしょみち】は1間(約2m)と道路に等級をつけて幅を決めたのだ。
 平城京や平安京などのごく限定された都市区域の道以外の道路政策が皆無であった日本では民政上の業績もあげるきわめて先駆的な仕事であった。
 イエズス会宣教師として来日し信長に何度も会って話をしたルイス・フロイスがいう。  「信長はあらゆる賦課【ふか】、関銭や通行税を廃止し、おおいなる寛大さで、すべてに自由を与えた。この好意は民衆の支持を得て、一般の人々はますます彼に心をひかれ、彼を主君にもつことを喜んだ」(『日本史』松田毅一訳)



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『幕末維新なるほど人物事典』(PHP)など多数。
ご意見・ご感想などは
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