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第34回 改革とはなにか
●独裁者・野中兼山の成功と失敗●
文/撮影 泉秀樹



野中兼山肖像画

 土佐藩の奉行職・野中兼山(良継)。通称・伝右衛門。
 兼山の先祖は美濃・大野郡(岐阜県大野郡)の名主で祖父・良平は山内一豊【やまのうちかずとよ】の妹・合【ごう】(慈仙院)を妻とし、父・良明は一豊配下の組頭として五千石をあたえられていた。
 一豊は甥っ子の良明を愛して関ヶ原の合戦で徳川家康について遠江・掛川(静岡県掛川市)から土佐二四万に栄転したときやがては幡多【はた】中村二万九千石をあたえる約束をしていた。が、一豊は5年後の慶長10年(1605)に死去して約束は反故にされた。
 これを不満として良明は土佐を出奔して浪人生活を送った。失意の日々を送っている間に妻・合が亡くなったため良明は大坂・天満の商家の女・萬を後妻に迎え、元和元年(1615)正月に播磨・姫路(兵庫県姫路市)で兼山が生まれた。
 しかし、兼山が4歳のとき父・良明が亡くなって残された萬と兼山は大坂を転々としていたという。
 兼山は13歳のとき一豊の家臣・小倉政景の婿・少介と会い、少介に見込まれて土佐藩の野中直継の女・市の入婿となった。
 野中直継は幕府から江戸城、駿府城、名古屋城、大坂城などの普請役を命じられて瀕死状態に陥っていた藩財政を建て直した執政主席(奉行職)である。
 寛永8年(1631)兼山は17歳で養父・直継とともに奉行職(家老)に任じられて藩政運営にたずさわることになった。優秀だったからだがなんといっても藩祖・一豊の妹・合の孫という血縁が重視された人事である。
 最初は養父・直継の補佐役であった兼山は寛永13年(1636)に直継が亡くなると野中家の家督を継いで実践道徳を説く南学(土佐で興った朱子学の一派)を基本理念にして藩政改革を積極的に推し進めた。

 幕藩体制の経済の基本は農業であり財政は確実な年貢米の徴収に支えられていた。江戸中期になると藩財政も米より貨幣中心になるが、兼山の時代はまだ農民の生産力と夫役(労働力)が経済の基盤になっていた。
 要するに藩財政を健全に運営してゆくためには米を恒常的に増収してゆかなければならず、在来の耕作地からの収穫が増えることがないとすれば新田を開発するしかなかった。
 新田開発に不可欠なのは堰と農業用水路である。
 兼山は物部【ものべ】川に山田堰【せき】、仁淀川に鎌田堰と八田堰を築いたのをはじめほかの川も含めて計16か所に堰を築いた。それぞれの堰からは総延長130キロメートルにおよぶ用水路を開削して七千町歩(約7000ヘクタール)の荒地を肥沃な水田に変えた。
 土佐の新田開発は慶長5年(1600)から寛永11年(1635)までが六千五百石、寛永13年から正保3年(1646)までが四千八三〇石、正保4年から延宝6年(1678)までで七万二千石の増収あったが、うち七万五千石は兼山によって開発された新田の収穫でありそれは大きな功績であった。
 また兼山は経済特区をつくった。
 舟入川の舟運を利用して長岡郡稲吉村(南国市大桶甲【おおそね】・後免町)に諸役御免(無課税)の地域を設け商人や職人を集めて魚、塩、茶、薪などを売買させ、ここは商業地「御免町」(のち後免町)として大いに栄えた。
 さらに、兼山は郷士を登用した。
 長曽我部が四国を支配していたころからの「一領具足【いちりょうぐそく】」と呼ばれる遺臣たちで、山内家が土佐を支配するようになってからは士分の下に置かれていた。
 兼山は、正保元年(1644)から取りかかった物部川下流の開発のために100人の郷士を士分に取り立てて開発した三町歩の土地の所有を認め、年貢を免除した。郷士は武士の誇りを回復し藩は彼等の不満を解消できるし夫役をやらせるだけでなく藩の武力の増強になると考えた。郷士たちは物部川の築堰や用水路開削だけでなく山間部や丘陵の荒地や草原の開発にも力をつくして協力するようになった。郷士は寛文4年(1664)には1000名にふくれあがっていたというから兼山の着想は大きな成果をあげたといえる。


 このように堰や用水路をつくり新田の開発を行って郷士を取り立てただけでなく、兼山は当時日本屈指の捕鯨地として知られていた室戸岬の室津港(室戸市)、安芸郡・津呂(土佐清水市)の港、手結【てい】港(香美郡夜須町)などを大幅に改修して漁業にテコ入れし、豊後水道から宿毛湾への入口の大月半島の先端に位置する柏島(幡多郡大月町)に長大な堤を築いて一大漁場をつくり出した。
 そしてこれらのどれもが藩財政に大きく貢献したのだが、兼山は計画が完全に実現するまで独断的で専制的に仕事を推し進めて周囲の介入を許さなかった。常に強圧的な態度でことに臨み、それは峻酷苛烈な性格とあいまって誰の眼にも傲慢不遜な独裁者に映った。
 兼山は厳格に過ぎた。
 たとえば松田川下流(幡多郡宿毛)の掘割普請は頬を引き裂くような厳寒のなかで三〇〇間(約540メートル)を開削しなければならず使役に狩り出された百姓はひそかに「雪や凍れ、霰【あられ】や凍れ、荒瀬の川が留まれや凍れ」と歌った。川が凍るまで工事を中止させなかったからである。あるいは「ひりばりは、伝右衛門様でもかまわざった」(労役が厳しくて大小便のときしか休憩できない)といわれた。
 「吸江【きゅうこう】五台は仏の島よ 並び高知は鬼の島」という俚謡も残っている。文殊菩薩【もんじゅぼさつ】が祀られている五台山(竹林寺)が仏の島で兼山のいる高知は鬼の島だという意味であり、それほど農民は重労働に苦しんで土地を捨てる者が続出するようになった。商人たちも専売制で利益を藩に吸いあげられる不満をふくらませてゆくことになった。なにもかも細かく厳密に統制して民間にできることを民間にやらせないツケが回ってきたのである。
 「赤面【あかづら】三匁、千鳥足十匁、生【な】ま酔い五匁」と酒を飲んだときや朝寝をしていると銀三匁という罰金刑まで定めて兼山は百姓の反撥を買った。
 従って藩財政には大きく貢献したが藩重役衆のなかにも敵が増えて兼山は失脚せざるを得なかった。
 33年間に及ぶ改革政策を終えて兼山は寛文3年(1663)9月に香美【かみ】郡中野(高知県香美郡土佐山田町中野)の自宅に隠居したが、3か月後の12月15日に突然死んだ。享年49歳。心臓発作とも自殺であったともいわれる。
 兼山だけでなく遺族も弾劾されて養母・よめ、妻・市、嫡男以下清七、欽六、希四郎、貞四郎、長女・寛以下、婉、従の一家は宿毛に40年間軟禁された。男女とも結婚をゆるされず、血が絶えて野中家が断絶することがわかってはじめて解放された。

 受益と負担のバランスばかりを考えていては改革はできない。
 改革を実行するときは多少の独裁的な手法が必要とされることを認めなくてはならない。民主主義を過信することもまた危険だからだ。兼山の功績と失脚は切り離して考えるべきであり、その生涯はまさに政治のあり方を象徴しているように思われる。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『幕末維新なるほど人物事典』(PHP)など多数。
ご意見・ご感想などは
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