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第35回 「赤子養育方」の戦い
●唐津藩の試みに見る少子化防止対策●
文/撮影 泉秀樹



 日本は待ったなしの人口減少時代に突入した。
 人口の自然増は10万人を割りこみ出生数は先進国のなかでも最低水準に落ちこんでいる。数字の上の単純計算をすると三百数十年後に日本人は地球上からいなくなるのだという。
 その一方、人工中絶件数は年間34万件を超える。
 デキちゃったから簡単にオロシてしまえばいいということだが、そうかと思えば産みたくても妊娠できない女性の不妊治療に信じられないほど高額の金をかけたりわざわざ外国へ行って産む手だてを整える女性もいる。なにかがおかしいと感じるのだが、これはなにも今にはじまった現象ではない。
 幕末に近いころ唐津藩(佐賀県)は少子化現象と懸命に取り組んだ。

 文化14年(1817)小笠原長昌は幕命によって奥州・柵倉【たなくら】(福島県)から肥前・唐津(佐賀県)に移封した。小笠原家の動産や家財道具や藩庁の諸々をはじめとして数千の家族が四百里(1600キロメートル)を移動する金は大坂商人からの借金でまかなった。小笠原家はこれ以前から財政困難な貧乏大名として知られており転封のときすでに火の車になっていたのだ。
 長昌が文政6年(1823)に亡くなると長泰が後を継いだが物入りが多く二千両ほど借金し、この時点で藩の借金は総額33万両を超えていた。
 そこで長泰は国中から大庄屋、庄屋を唐津城に集めて直々に「御勝手向難渋ニ付其方共江助勢ヲ頼ム【ごかってむきなんじゅうにつきそのほうどもへじょせいをたのむ】」と頭をさげた。
 だが、日毎に借財が増えつづけて長泰は文政10年(1827)には老若男女を問わず個人に頭割りに同割の税を課する人頭税と10歳から60歳までの男女から一日二文を徴収する日銭を課税することにして15%の増税をはかった。が、こんな程度では焼け石に水で文政11年(1828)9月には台風(子年の台風)の襲来で甚大な被害をこうむった。
 そして天保4年(1833)には「天保の飢饉」を迎えることになるが、この年の2月、長泰のもとで家老直属の少子化防止に取り組む「赤子養育方」という役所が設けられた。
 家禄百五石の中小姓・竹田才兵衛が責任者である。この役所の設置の発案者が誰であったかはっきりしないが、初代責任者・才兵衛だったのではないか。
 まず間引きやオロシ(堕胎)をやめさせるために役所の役人の下に庄屋を置いてその考え方を徹底させることにした。藩人口の減少は農民の数が減ることでありそれは年貢米収入が減るということだった。武士階級の生活に響くだけではなくそれはそのまま藩全体の衰退につながる由々しき問題であった。
 「赤子養育方」は生活困窮者が出産したときは米一俵から三俵を3年間にわたって支給することとし、村々の担当者を決めて赤子養育のPRソングの歌詞を配布し、普及させた。
 「それ人は 万【よろず】の物の長【おさ】なるぞ 長と言いしは何ゆゑぞ 慈悲やなさけが根となりて礼儀廉恥【れんち】を しるゆゑぞ 親に孝行 子に慈愛……」という出だしで、生まれてきた子を初声もあげさせないまま殺すのは人の行いではない、慈悲と情の心があってこそだとつづいて「生まれ出た子の初声を聞いてみよ いとしき心湧き出でて 育つる気にはなるものぞ」と母性や父性に諭すように情をこめて堕胎や間引きのよくないことを説いた。
 歌だけで間引き堕胎を防ぐことはできないから同時に刑罰の伴う赤子取締仕法も徹底させた。
 妊娠したら5か月目に庄屋に届け出ること。生まれたら籾一俵、100日目に金一歩を下賜すること。流産したら村役人立会いのうえで確認して書類にして提出せよ。死産したときは全身のどこかに疵がないこと、首回りに締めた跡のないことを確認せよ。生まれて病気になったときは養生の補助をするが、死んだときは治療の様子を報告すること。誰かが新生児・胎児を殺したことを訴え出たら褒美に金五匁をあたえるが、そうしたことの協力者からは三貫文の罰金を取りたてることなどなどである。
 だが、堕胎や間引きが発覚して処罰されることは少なくなかった。
 見借村・勇平は妻が懐妊したことを届け出なかったので村で10日間の強制労働をさせられた。鳩川村・弥作も出産の届け出を怠って10日間の強制労働、和多田村・甚助は双子が生まれたものの迷信から嫌われることが多かったため届け出なかったので牢屋に入れられた。
 故意にすべって転んで流そうとして罰せられた者もいた。妊婦が転倒したときは届け出なければならず、それをしなかっただけで強制労働させられた。
 神集島に流罪に処せられた者もいた。この島へは唐津市湊【みなと】から連絡船で8分ほどで距離は約2.5キロメートルほど(最短直線距離は1キロメートル弱)だからそんなに重罪であったとは思われないが、それでも何より人手がほしい百姓には重い罰に感じられたにちがいない。


 先に「天保の飢饉」があったと述べたが、飢饉はこの天保4年だけでなく文政11年(1828)から天保5年(1834)まで延々7年間もつづいていた。百姓は飢えと貧困のどん底を這いまわる家畜のような生活でどの村も疲弊しきっていた。疲弊しきっているのに年貢を払い、家族の数だけ人頭税を払い、日銭を払わされる。
 つまり、現状以上の税をとられる新生児の誕生は家族を餓死させることに直結していた。1年に米一俵から三俵ばかり支給されたところでどうにかなるものではなかった。どうしても堕胎か間引きをしなければ百姓も貧困町人層も生きてゆけなかった。
 次男、三男、とくに女児はほとんどが初声をあげる前に始末された。産婆(助産婦)と妊婦の間には女児は1人、男の子は2人までと黙約ができていたのだ。
 このため唐津藩だけではなくどの藩でも男性100人に対して女性73とか76などという人口構成になっていた。どうしても労働力を重視されることになって女性が少なくなり次・三男は生涯独身で過すことが多かった。土地を兄弟で割って相続してはならないことになっていたのである(分地制度令)。
 したがって結論をいうと「赤子養育方」はそう目立った成果をあげることはできなかった。悲惨な生活苦から堕胎と間引きは行われつづけた。いたましく切ない抵抗である。
 僅かながら「赤子養育方」が幕末までに効果をあげたのは人口構成比が男女ともに近くなったことである。これは唐津藩だけでなく全国的な傾向だが間引きや堕胎をする者が少しは減ったということであり、この程度でも「赤子養育方」は善戦したと評価すべきだろう。ないよりはマシな成果をあげたのだから。

 少子化を防ぐために、古代ローマ帝国では未婚女性から未婚を理由に高率の税をとったり、子供の数の多い男子を優先的に公職につけたり、子供がいないまま未亡人になると遺産の10分の1しか相続できないなどの仕組みをつくった。そして少子化だけが原因ではないけれども、結局、ローマ帝国は滅亡してしまった。
 では、政治の力では出生率の低下を防ぐことはできないと諦めてしまうしかないのか? そうではないだろう。人口減少を積極的に認めそれを利点と考えて政治、経済のあり方を新たに構築して繁栄への道を模索すべきだろう。決して諦めてはいけない。
 もっとも厚生労働省研究班の調査によれば病気の子供の治療を医師が提案しても18%の親が治療を拒否したというし(平成15年度)幼児虐待や殺害も増える一方だから、生むことを奨励したり生まれてからの保護や補助を懸命に充実しても、赤ん坊に「生まれたくない」といわれるか?



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『幕末維新なるほど人物事典』(PHP)など多数。
ご意見・ご感想などは
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