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第36回 橋を架ける夢
●空想と現実の間に生きた中川虎之助●
文/撮影 泉秀樹



中川虎之助

 本州と四国が橋によって初めて結ばれたのは昭和末期のことである。
 以降、神戸淡路鳴門自動車道、瀬戸中央自動車道、しまなみ海道の3つのルートが次々と開通し、それぞれに連絡大橋が建設されて車で自由に往来することが可能になった。
 関西と四国を結ぶのは淡路島をはさむ明石海峡大橋と大鳴門橋で、四国と淡路島を結ぶ大鳴門橋は昭和51年(1985)の着工から9年の歳月をかけて昭和60年(1985)に巨大な吊り橋が完成した。
 しかし、これをさかのぼること71年前、巨大な渦巻がさか巻く鳴門海峡に橋をかけようとした男がいた。鳴門海峡とは兵庫県淡路島の南西端・門崎と、徳島県鳴門市大毛島の北東端・孫崎の間の海峡をいうが、その男・中川虎之助は徳島県板野郡上坂町神宅【かんやけ】村出身の衆議院議員であった。
 「阿淡【あたん】海峡の鳴門に橋梁【きょうりょう】を架設し、本土と四国の間の交通を完全ならしむるの目的を以て、政府は之に関する諸般の調査及び工費の算出等を為【な】し、且つ阿淡海峡の鳴門潮流を利用して電力を起【おこ】し得るや否や調査研究せられんことを望む」(原文は片仮名混じり文)
 これが虎之助が大正3年(1914)3月13日に第31回帝国議会の予算委員会に提出した「鳴門架橋及潮流利用発電【なるとかきょうおよびちょうりゅうりようはつでん】調査ニ関スル建議案」である。驚くべきは、虎之助が鳴門海峡に橋を架けることばかりか、その潮流のエネルギーを利用して発電までしようという提案をしたことである。

 鳴門海峡は、紀伊水道(太平洋)と播磨灘【はりまなだ】(瀬戸内海)が接する約1300メートルの海域をいうが、海峡の底の断面はV字形で最深部は90メートルといわれ、海峡の外と内の干満時の水位差は最大2メートルにまで達する。このため、播磨灘側から紀伊水道側に流れる「落潮【おちしお】」と紀伊側から播磨灘に流れる「逆潮【さかしお】」がそれぞれ1日に2回ずつ計4回、すさまじい潮の響きをたてることになるわけである。
 干満の差がもっとも大きい春と秋の大潮のときは、潮速が時速20キロメートル以上にもなるという。海水は激しくさか巻きながら急流となり、直径10メートルから30メートルほどの巨大な渦がいくつもできる。
 ラーメンに浮かぶピンク色の渦巻模様のかまぼこ「鳴門」のデザインで知られるいわゆる「渦潮【うずしお】」である。
 渦潮がさか巻くこの鳴門海峡に橋を架けることを徳島と淡路の人々は切望していたが、当時としては橋を架けること自体が実現不可能な絵空事、笑い話に近い夢に過ぎなかった。
 まして、橋のみならず渦潮で電気を起こすなどという虎之助の建議案はまともにとりあげられることはなかった。「奇想天外にもほどがある」「単なる空想ではないか」「莫大な工事費はどうする」という印象を持った者も多かったにちがいない。尾崎行雄をはじめ議員29名の連署を添えて提出された虎之助の建議案は結局、本会議で取り上げられることなく、否決されたのである。
 以後、虎之助は大東京改造案を提出して「大風呂敷」と称された後藤新平になぞらえて「阿波の大風呂敷」とか「中川ホラ之助」「奇人代議士」とかげ口をたたかれることになった。当時の常識のスケールをはるかに超える主張であったことはまちがいない。


 虎之助は幕末の文政6年(1859)、阿讃山脈南麓の吉野川平野を展望できる日当りのいい村・神宅で生まれた。このあたりは阿波名物の和三盆【わさんぼん】(和白糖【わはくとう】)や染料となる藍の栽培、あるいは養蚕、製糸、稲作を営む農家が多く、中川家は代々和三盆と「勝兜【かちかぶと】」という清酒を年間300石(一升ビンで3000本)を産し、25町歩の土地を所有する豪農であった。
 政治郎とエイの間の三男として生まれた虎之助は、屋敷の内外で多くの作男や奉公人が忙しく立ち働く家で何ひとつ不自由なく育った。身体はさほど頑強でなかったが胆のすわった少年だったという虎之助は、14、5歳のころから家業の和三盆づくりに励んだ。
 明治14年(1881)東京で第2回内国勧業博覧会が開かれたときのこと、中川家が出品した「阿波和三盆」が品質優秀をもって「有効一等賞」を受賞。上京した虎之助が功労者として表彰されたが、そのとき虎之助の心をとらえたのが同じく出品されていた沖縄産の甘薯【かんしょ】だった。
 和三盆製造研究のため、虎之助は以後沖縄や八重山諸島に幾度も足を運び、甘薯栽培の調査をくりかえした。そして明治27年(1894)には石垣島の原野を開墾してやっと和三盆製造にとりかかったのである。しかし、3年後の明治30年(1897)の11月と翌年6月の2回、つづけて石垣島が大型台風に直撃されて虎之助の夢はあえなくついえた。
 操業中止に追い込まれた虎之助は、やむなく工場で使用していたボイラーを台湾の製糖業者に売却するために台湾に渡ったが、このとき出あったのが当時の台湾総督・児玉源太郎と民政長官・後藤新平である。2人は、虎之助に台湾での製糖工場経営を助言した。
 明治34年(1901)、2人のすすめにしたがって「中川製糖所」を台湾に設立した虎之助は、しかし再度操業停止の苦い汁を飲むことになる。


 このころ、日本には安価な外国糖の輸入量が急増して日本国内の和式製糖業者は衰退の一途をたどっていた。そこで虎之助は輸入粗糖に対する輸入税を上げ、すでに輸入された粗糖には消費税を上げることを児玉総督に建言した。
 というのは、当時の日本は近い将来ロシアとの開戦は避けられないだろうという空気があり、それに備えて国家財源を少しでも確保しておく必要があったからである。これによって国内の製糖業界も閉塞状況から脱出できるにちがいない。
 しかし、この建議は虎之助の台湾での製糖所から日本に売る製品の税金が高くなるということでもある。そのことを承知のうえで、虎之助は輸入砂糖の税率を上げる提案をした。彼にとって一番大事なのは日本国であり、私個人の企業は犠牲になってもかまわないという気概にあふれていた。
 虎之助は明治41年(1908)、第10回衆議院議員総選挙に立候補し当選した。その後、製糖業界と政治家の間で贈収賄が行われた「日糖疑獄事件」に激怒して「この恥を刑するに切腹を」と建議するなど、虎之助の奇人ぶりはすっかり有名になっていた。そして再選された虎之助が打ち上げたのが冒頭の鳴門海峡の架橋と発電案だったのである。
 中央政界で認められなかった虎之助は郷里の神宅村に帰り、村の土が柿と桃の栽培に適していることに着目し栽培に取り組んだ。現在は神宅は柿と桃の名産地として知られるようになった。
 鳴門の壮大な渦潮にも似た虎之助の人生だったが、鳴門海峡に橋は完成したものの、いまだに渦潮による発電については何の取り組みもなされていない。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『幕末維新なるほど人物事典』(PHP)など多数。
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