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第37回 「積小為大」の実行と成果
●二宮金次郎の財政再建●
文/撮影 泉秀樹



二宮金次郎の肖像

 小田原藩主・大久保忠真【ただざね】が飛び領地・桜町(栃木県二宮町)の財政再建を二宮金次郎(尊徳)に依頼したのは文政4年(1821)春である。
 桜町領は物井、東沼、横田の3村から成り、大久保家の分家である旗本・宇津帆之助【はんのすけ】が陣屋に拠って支配しており農民1900余名、400余世帯が四千石を生産して3000から4000俵の年貢(税)を納めることになっていた。
 が、疫病や天明の飢饉に襲われたことや領地運営が杜撰な上に宇津家が贅沢を好んだため文化9年(1812)から文政4年(1821)まで税収が平均934俵、金130両に落ちて農民の世帯数も145に減っていた。
 約4分の1の収入では領地の運営はできなかったから桜町領全体が足りない分を本家の小田原・大久保家から支給される補助金に頼る寄生【パラサイト】生活を送っていたのだ。

 金次郎は天明7年(1787)7月23日、酒匂川の右岸の農村・栢山【かやま】(神奈川県小田原市栢山)で生まれた。父・利右衛門と母・よしの間の長男である。
 養子だった父は病弱で働くこともできないだけでなく無類のお人好しであったから、中農クラスであった二宮家の資産を減らしつづけて、ついには破産状態にして寛政11年(1800)9月26日に病死してしまった。つづいて享保2年(1802)3月下旬に病に倒れた母も4月4日に亡くなった。ときに金次郎16歳、弟の友吉が13歳、下の弟の富次郎は4歳だった。
 父の兄・万兵衛宅に引きとられた金次郎は近くを流れる仙了川の土手に油菜を育てて油と交換してもらい、その燈火で勉強し、拾った苗を植えて2俵の米を収穫したりし、19歳のときに独立して懸命に働いてかつて父が失った家産分を23歳のときにはすべて回復してたくわえまでつくって周囲を驚かせた。以後は小も積めば大となる「積小為大【せきしょういだい】(小を積みて大となす)」を身をもって実践して生き方の根本思想としたのである。
 そして、26歳のとき千二百石取りの小田原藩家老・服部十郎兵衛の若党として仕えた。
 やがて困窮しているのに奢侈【しやし】に流れて千両近い負債を背負って傾いていた服部家の建て直しを依頼された金次郎は、全権を委ねられることを条件に5年間でこれをやりとげた。
 まず金次郎は服部一族の意識改革を行い薪、味噌、漬物に至るまで管理する節約と、負債を低金利の融資に借り替えたり、給される米を備蓄して値上りを待って売るなどして立派に建て直した。
 こうした経済再建の手腕を見込んだ藩主・大久保忠真は、金次郎に桜町領の財政再建を依頼したのである。


 桜町の荒廃は金次郎の眉をひそめさせた。
 土は痩せ、水に乏しく、気候は寒く、凶作がつづいていた。
 貧困にあえぐ農民は無気力で怠堕になって酒に溺れ、賭博に狂い、窃盗を行なって田畑には一面にヨシやススキが生い繁って家々をとり囲み、穂先が屋根に接してなにかの拍子に野火が燃えたつと家々もたちまち炎上するありさまで、さらに困窮し追いつめられると農民は他領へ逃亡していった。
 こうした状況を視察した金次郎は大久保忠真に興味深い意見を述べている。
 君主はみな領地を復興するのに補助金をあたえてことごとく失敗しているが、その理由は「仁術を施すに金穀【きんこく】を以て助成するのみなるが為に、却【かえ】って惰民【だみん】(怠惰な大衆)を育成するのみである」(『二宮尊徳伝』佐々井信太郎=以下同じ)と。補助金を出すからみなそれをあてにして怠惰になってしまうのですというわけである。
 そこで忠真は「財を用ひてすら復興しない、然【しか】るに今財力【ざいりょく】を用ひずして成就せんとするには如何【いか】にして可【か】なるか」とたずねた。すると金次郎は「補助金、交付金を自己の利益に活用せんと欲して互に利を争ひ、下民(大衆)は吏僚【りりょう】(役人)の私曲【しきゃく】(不正)を論じ、吏僚は民衆の私曲を養ひ、非を暴き利を貪【むさぼ】って復興の道を失ひ、益々人情頽廃【たいはい】に赴く(中略)往古開闢【おうこかいびゃく】以来開田せられたもの幾万町歩、其始【そのはじめ】より金銀を借り来たって起したのではない、必ず一鍬一鋤【ひとくわひとすき】より開けたのである」とこたえたという。補助金がどのように使われるかを金次郎は見抜いていた。


 金次郎はこのあと私有財産をすべて処分して人生の退路を断ち、妻子とともに桜町へ赴くと、さっそく改革にとりかかった。
 まず一世帯ずつ訪問して事情を聞きとった。
 耕作を指導し、水利を確認して田畑の境界を正した。善行や勤勉の者を表彰し、悪事は説諭してやめさせ、食えない者には食糧をあたえた。
 崩れたり傾きかけたりしている家々を修理し、湿地に土を入れ乾燥地は掘り下げた。荒地を開発し、移住者を招致して衣食をあたえた。従来から住む者がこの新しい入植者を排除しようすると、金次郎はこれをおさえた。
 やがて犯罪者が徐々に減っていき、出産、結婚、分家届が少しずつ増えた。
 復興のきざしである。
 1000俵以下だった年貢が2、3年で1000俵を超えた。天保2年(1832)には世帯数160に増え、人口も828人に伸びた。
 ついには30数年の歳月をかけて、桜町は全国でも類を見ない模範領として再建されたのである。
 長い長い気長な努力のたまものだがその基本的な考えは「報徳【ほうとく】」にあった。
 「報徳」の「徳」とは人や物に独特にそなわっている長所、美点、才能、潜在している可能性などを指している。「報」とはこれらの「徳」を工夫や努力によって生かし顕在化して経済的・社会的な付加価値を引き出すこと。
 たとえばワラの「徳」に人間が「報」すなわち工夫を加えて俵や草鞋をつくり出すということである。
 この「報徳」を日常生活で実践しておこたらないで精進していれば、ことさらそれを意識していなくてもごく自然に言動や生き方に効果があらわれてくると金次郎は考えた。
 「上は王侯から下は庶民にいたるまで、おのおのその天分にとどまり、節度を立て、勤倹【きんけん】を守り、分外【ぶがい】(身分不相応)の財を譲って報徳の資材とし、これによって荒れ地をひらき、負債をつぐない、貧窮をめぐみ、衰村を立て直し、廃国を興こす」(斉藤高行『報徳外記』)と金次郎はいう。
 現代日本人がすっかり忘れてしまったこと、というより金次郎は現代の短時日で莫大な利益をあげようとマネーゲームに狂奔する日本人とは対極的な生き方をしたことを思い知らされる言葉である。
 金次郎はその後関東の600余町村の窮乏と荒廃を救済するために活躍し、墓碑を建てるな、土饅頭をつくって杉か松を1本植えてくれれば充分だといい残して安政3年(1856)10月20日に69歳で没した。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『幕末維新なるほど人物事典』(PHP)など多数。
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