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第38回 琉球の美・琉球の心を守る
●紅型の復興に生きた城間栄喜●
文/撮影 泉秀樹



城間栄喜

 紅型は上流階級の用いる布であった。
 「紅型」と書いてビンガタと呼ぶようになったのは昭和に入ってからでそれまでは「型附」と書いてカタチキと読んだ。
 階級によって使用できる色と模様が異なっていた。
 黄色地は王族以外は使用できないとか、図柄が大きく肩と裾に模様がある二段肩付は王族を示す、という風に使われた。大部分は首里で作られ、知念・沢岻・城間の三家が御用紅型師であった。
 明治41年(1908)3月4日、この三家のひとつである那覇市久米村の城間家に13代として生まれた栄喜は、大正8年(1919)小学校を卒業するとすぐ紅型染めの家業を手伝った。
 が、注文は少なかったから次第に家は傾いた。そこへもってきて得意先の麻の反物が盗難に遭いその借金が城間家にも影響し、不景気が重なったから破産同様の状況になった。
 このため家で約2年働いたものの大正10年7月にまだ少年であった栄喜は八重山(八重石垣町大川)へ30円で年期奉公に出された。当時の30円は東京・銀座の一流洋服店で英国製の生地を使って仕立てた注文紳士服とほぼ同じ額だから城間家はよほど困窮していたと思われる。
 八重山に送られた栄喜は店員、森林伐採、カマボコ職人、理髪の見習いなどをやり、大正11年(1922)には鰹【かつお】漁船や伝馬【てんま】船に乗組んだ。
 八重山で7年間の年期奉公を終えて昭和3年(1928)那覇に帰った栄喜は家業を継いで紅型の研究にとりかかった。しかし、不景気。父が亡くなり病身の母を支えなければならず同業者は経営難から次々と廃業してゆく環境で栄喜は苦戦した。
 城間家だけでなく紅型は衰微の一途をたどって栄喜は貧乏のどん底を這い回りながら染料も手に入らないような生活を送ったが、それでも紅型の制作をつづけ、ついには婚約者の親に結婚を断られたという。
 そして昭和12年(1937)ごろから景気も上向き紅型染めの着尺【きじゃく】や帯の注文も増えたかと思う間もなく日支事変に突入、太平洋戦争がはじまって召集された栄喜は佐世保航空隊機関部、福岡県山富士航空隊などに配属されて昭和22年(1947)9月にようやく沖縄に復員できた。
 戦火にさらされて灰燼【かいじん】に帰した故郷で栄喜は絶滅に瀕している紅型復興に取り組む。
 栄喜は紅型染めの技術の保存と普及、継承して多くの技術者を育てたいと考えたが焼け野原と化した那覇に工房など構えるべくもない。漁業で生計を立てながらテント小屋に住んで紅型制作に取り組んだ。
 テントは台風で千切れた。そのテントにくるまって眠った。雨が降ればずぶ濡れになった。地面に板をまばらに敷いた床に座っていると冬はこたえた。
 しかし、栄喜は戦前本土に持ち出されて戦後沖縄にもどった城間家12代の型紙や首里の日本軍の壕のなかにあった地図を使って作られた型紙を集めた。夜光貝を摺【す】り潰して白、口紅に赤瓦を摺ってつくった粉を混ぜて赤、また本土に行く人に頼んで染料を求めた。


 昭和28年(1953)に栄喜が琉球大学家政学科で染物の実習をやっているとき学生として手伝いをつとめた安次富長昭(のちに琉球大教授・沖縄県文化財保護審議会会長)は、そのころ栄喜は金切り鋸の刃をグラインダーで成形し木の柄をつけて型彫り用の刀に使用していたという。また、小銃の弾の真鍮部分の先を切り落して作った口金を「糊引き」(筒引き)に使用していた。紅型の糊置用のヘラは米軍払い下げのLPレコード盤を切って作った。その厚さとしない方がヘラにもってこいであることに着目したのだ。貧しさのなかのこうした廃物利用こそが紅型を復活させた基本的な道具であった。
 栄喜は少年のころ家で手伝いをしたときの記憶を頼りに図案を描き、まぶたに残っているイメージを描きつづけた。
 栄喜は漁師だったし釣り好きでよく沖釣りに出たが身体に染みこむような海の色を目の底に焼きつけていたのに違いない。
 栄喜は次々と傑作を生み出した。
 小学校を卒業してすぐ手伝った仕事の記憶、少年のころ働きに行った八重山の民謡が好きだったが、それが栄喜の心にたくさんのイメージをつくったことだろう。
 紅型のあざやかな色彩は原料の色数は5、6色しかないが、それらを混色させることや配色によって、実に複雑多様な色彩美を生み出して見るだけで身体も心も元気になってくる紅型をつくる栄喜の技術と感性は天才的であった。


 型染めの工程はまず原画を描きその画を型紙に彫るところからはじまる。
 型紙とは柿渋を引いた和紙で、これを小刀(シーグ)で突き彫りする。「るくじゅう」と呼ぶ乾燥させて木みたいに固くなった豆腐を台にして図柄を彫り、彫りあげたら絹の紗【しゃ】をかける。型紙には相当細い線がでるから、その部分が切れたり裂けたりしないように補強するのである。
 次はこの型紙を布に重ねて米ヌカとモチ米でつくった糊(モチ粉)をヘラで置く。「防染」(染まらないようにすること)のためで、型紙の通りに布に附着した糊の部分だけがマスキングされて白く残るしくみである。
 そして、糊置きが終わった反物の緯糸【たていと】方向の両端を張手(チンバイ)ではさんで空中に布を吊り、経糸【よこいと】に沿って伸子【しんし】を取りつけて布をピンと張る。伸子は両端に針のついた竹ヒゴで、布幅を一定に保ちながら布をピンと張る。布を伸ばしたまま糊を乾燥させて色を差す。
 色を差すときは塗り筆と刷り筆の2種類が使われるが、この刷り筆は若い女性の長い髪を束ねて2つに折り、細い琉球竹の芯にひっぱりこんである。
 竹の芯に髪の毛が詰まったものができるわけだが、先端からこの毛髪を鉛筆の芯を削り出して使うように削り出して彩色に使う。弾力がある毛だと糊置きした布をこすっても糊がはげない。
 水洗いの水槽へ。
 要するに、先に糊を置いて「防染」したところには色がついていないわけで、糊が洗い流されると、あざやかな色のみごとな模様が水のなかから浮かびあがってくる。
 染める色はフクギ、ヤマモモ、スオウ、アイ、さらには動物・鉱物性の染料を使っている。
 省略して説明したから随分簡単な染め物だと思うかもしれないが、この工程で1カ月や50日はすぐ経ってしまうたいへんな仕事なのだ。

 栄喜は昭和22年(1947)に「城間紅型工房」を設立、昭和27年(1952)には先祖が残した技を伝える義務があると考えて「琉球紅型振興会」を設立した。
 栄喜のもとで多くの職人が育っていった。
 いまでは沖縄に紅型が氾濫している。
 値段の安いものから高価なものまで誰でも紅型を楽しむことができるようになった。
 栄喜は平成4年(1992)6月10日に84歳で没したが琉球の美と琉球の心はたしかに後世に伝えられた。
 栄喜が守り育てた紅型を見つめていると、美しいものだけが生きのびる力があり、また、命がけで守らなければならないということがよく理解できる。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『幕末維新なるほど人物事典』(PHP)など多数。
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