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第39回 福島県郡山市の誕生
●「狂奔者」と呼ばれた小林久敬●
文/撮影 泉秀樹



 徳川幕府が倒されて明治新政府の時代に変っても東北地方は戊辰【ぼしん】戦争の後遺症に苦しみ、生産性の低い後進地域としてとり残されて「白河以北一山百文【しらかわいほくひとやまひゃくもん】」といわれた。「一山百文」とは「ひとつの山が百文」という意味ではなく、たとえば芋をヒト山いくらというときの「一山百文」でそれほど価値を低く見られたという意味である。
 この新生日本の陸奥【むつ】・岩代の岩瀬郡須賀川村中町(福島県須賀川市中町)で名主格(村長・世話係)として認められていた継立問屋【つぎたてどんや】(運送・郵便)小林久長と妻・タツの間に男の子が生まれた。文政4年(1821)のことで、長男を失くしていたから小林家十四代を継ぐ男子誕生は小林家の大きなよろこびであった。子供は宇三郎と名付けられ、のちに弥三衛門、さらに久敬【ひさたか】と名乗った(以下・久敬)。
 小林家は中通りと浜通りと会津の三地方の要に位置し物資の集散地として栄えている須賀川の富商だったから久敬は7歳のころ上流家庭の子弟が学ぶ須賀川郷学問所に入り、何ひとつ不自由なく大切に育てられた。のちに物乞い同然の境遇になって妻子と離別しあばら屋に住んでわずかな土地を耕して細々と自給自足の生活を送ることになるとは誰も想像できなかった。

 天保12年(1841)父が亡くなって22歳で家督を継いだ久敬は弘化4年(1847)26歳で縁戚に当たる岩瀬郡長沼村勢至堂の郷士・柏木友輔の23歳の次女・キチと結婚し、翌年には長男・弥八郎が生れた。富商の後継者として久敬は平凡ながら幸福な毎日を送っていたのだ。
 しかし、久敬はそうした幸福のなかで生きることに満足できなかった。いつからとは断定できないが、久敬は自分が生まれ育って今も生活しているこの地方、現在の福島県の中央部に位置する広大な平坦地に猪苗代湖から水を引くという途方もない考えにとり憑かれたのである。
 須賀川の北にあたる一帯には郡山の開成山【かいせいざん】(郡山市・開成公園)を中心とした太古の原野がひろがっていた。それまでその原野を開拓して農地にできなかったのは年間雨量1200ミリメートル前後で乾燥地とまではいかないまでも恒常的な水不足地帯であったからだ。東に阿武隈川が流れているものの低地を流れているから水を引くことができなかった。阿武隈川のほかにも笹原川、逢瀬川【あぶくまがわ】などの河川に恵まれていたがどの川も河床が低く農業用水として利用できず、それまで灌漑用の溜池をつくって新田開発しようとしたもののほとんど失敗して不毛の荒地として放置されていた。
 久敬はこうした荒地全体に会津磐梯山の麓にひろがる猪苗代湖(水位514メートル)の水を引く長大な水路を掘削することを計画したのだ。


 猪苗代湖からの水路をどこへどのように引くかを久敬が本格的に調査しはじめたのは慶応(1865)に入ってからである。
 久敬は高価な舶来製の測量機を買い測量士を雇って平板測量を開始した。須賀川郷学問所で学んだ箱根用水(本誌31号)を掘削【くっさく】したときの提灯の光を見て土地の高低を測る「ちょうちん測量」も行った。
 安積疏水【あさかそすい】掘削計画が具体的にスタートしたことになるが結局この測量に久敬は私財ニ千両(2億円)を注ぎこむことになったという。
 すでに構想は固まっていた。
 猪苗代湖の浜路から落差270メートルあることを利用して西南の中野へ水を落して岩瀬へ流す計画で、久敬は地元の有力者に説明をつづけた。
 そして、測量の結果、浜路・河内・大槻原・仁井田・岩瀬というルートと舟津・三森峠【さんもりとうげ】・八幡・川田・岩瀬のルート。あるいは山潟・中山峠・熱海・五百川経由で安積へ流す計画を立てた。いずれもニ十万両(約200億円)を必要としたから誰も本気で考えようとせず、久敬は「狂奔者」と呼ばれることになった。
 久敬は明治5年(1872)から6年にかけて「安積野開墾建言書」と「猪苗代湖開削水路見積書」を県や政府に建言した。
 十数年の歳月をかけて調査し浜路・斉木峠に水路を開く一五万ニ七五一両(円=約150億円)の見積もりで民間有志から一万両(約10億円)を集める計画だった。

 この少し前の明治4年(1871)新政府は廃藩置県を断行し、身分を失った士族を安積の荒地に投入して開拓する方針を立てた。
 開拓の責任者は中條政恒(福岡県典事)で民間の有力者と協力して「開成社」を設立、会社として開墾に取り組むことになり明治7年には開成館(安積郡役所)も設立された。
 この中條政恒や福島県令・安場保和らに久敬は建白しつづけたが、計画は容易に認められなかった。
 が、明治9年(1876)6月、右大臣・岩倉具視や大久保利通、木戸孝允らを引きつれた明治天皇が須賀川に来訪し、郡山・開成館を訪れたことで安積開拓案は大きく前進した。大久保がその調査のため奈良原繁と南一郎平を派したのだ。
 新政府は明治11年(1878)一般殖産および華士族授産方法の原野開墾第一着手地として安積原野の開墾と猪苗代湖水を東へ引くことを計画した。
 その後、久敬は荒池(郡山市・荒池公園)のほとりに別荘を建てて水路開削運動の拠点にした。史料不足で詳細はわからないが仕事を長男・弥八郎に譲ったあと持てる財産を使い果たして妻子と離別することになったかと思われる。久敬は理想的な家庭人ではなく「狂奔者」として生きていた。
 安積開墾は大久保利通の暗殺で一時中断されたが、政府はオランダお雇い外国人の長工師ファン・ドールン(オランダ人)に確認調査させてついに本格的に着手することになった。水路のルートは上戸・熱海・安子ヶ島で久敬が建白した案のひとつだった。


 明治12年(1879)10月27日。
 疏水開削の起業の式典が行われた。
 久敬も政府から招待された。
 久敬が須賀川中町近くの旅籠・大白木屋へ出向くと内務卿・伊藤博文、勧農局長・松方正義らによって、久敬は表彰された。それまでの功績に対して明治天皇から銀盃を下賜されたのである。
 そして持てるものをすべて投げ打つという命とりになりかねない犠牲の痛みを歓びとして生きる狂気に似た情熱の炎を燃やしつづけた男は明治15年(1882)に完成した疏水が田圃【たんぼ】を潤しているのを見て「あらたのし 田毎【たごと】にうつる 月の影」と詠んだ。俳句として出来のいい句とはいえないが下手であってもこの句にこめられた久敬の人を想い国を想う愛の深さははかりしれないことが理解できよう。
 疏水の開通は予想をはるかに越える恩恵をもたらした。乾燥した荒地を湿潤肥沃な農地に変え、食糧の増産に貢献し、水道、発電、工業の発展を促し多くの雇用を生み出して郡山という町を誕生させた。
 郡山は明治初年は人口4千数百名だったがいまでは33万9241名(平成17年8月1日現在)に増え、県の中核都市に成長している。
 久敬は荒池のほとりのあばら屋で物乞いのような晩年を送って明治25年(1892)5月21日没。享年72歳であった。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『戦国なるほど人物事典』(PHP)など多数。
ご意見・ご感想などは
office-izumi@w8.dion.ne.jpまで。



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