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第40回 向島百花園と庶民文化
●「テーマ・パークの先駆者・佐原菊塢【さはら きくう】●
文/撮影 泉秀樹



佐原菊塢肖像(歌川国丸画)

 榎本武揚は慶応3年(1867)27歳のときオランダに留学して幕府が発注していた軍艦・開陽丸で帰国した。間もなく海軍奉行に任じられて戊辰戦争を迎え、江戸開城後は土方歳三らとともに函館・五稜郭に立てこもって官軍に抵抗した。
 戦争に負けると投獄されたが、明治政府に起用されて新しい国をつくるために大いに貢献した。外交、農商務、文部、科学技術と百科全書的な活躍で日本の近代化につくしたのである。
 その榎本武揚の引退したあとの楽しみは「向島百花園」(東京都墨田区東向島3丁目=以下・百花園)を訪れることだった。
 榎本は百花園のなかの茅葺きの御成座敷【おなりざしき】で酒を飲んだ。銚子や盃を使わず一般庶民と同様に湯呑み茶碗で冷酒を飲み、興至れば詩をつくった。
 白馬春袗斎賞春 長堤如帯漲紅塵
 誰将人事巧相似 刮目桜花三日新

 【白馬に乗って花を愛でる。墨田川の堤(日本堤)は帯のようにつづいていて周囲を見ると俗事ばかりである。なにごとも人のすることはよく似ているものだ。桜の花は3日もすれば目を見開かずにはいられないほど新たに美しくなっているのに】
 という内容で、今の政治家には求めるべくもない文化度の高い隠居生活であったと知れる。

 このように榎本武揚をはじめ伊藤博文、乃木希典ら多くの人々が愛した百花園は佐原菊塢【きくう】という骨董商が文化2年(1805)に創設した。
 菊塢は俗称を平八といい仙台の百姓の出で天明年間(1781〜89)に江戸に出てきた。
 歌舞伎の中村座の芝居茶屋(劇場に付属して観客の案内、幕間の休憩、食事、遊興などのサービスをする茶屋)和泉屋勘十郎の下で働いて、平蔵と名を改めた。
 勘十郎の妻・おすみは五代・団十郎白猿の長女で七代・海老蔵の生母であったから、平蔵は幼い海老蔵の面倒を見ていたという。
 10年ほど和泉屋に勤めて金を貯めた平蔵は独立して日本橋住吉町に骨董店を開いて北野屋平兵衛と改称したから世間の人々は「北平」と呼んだ。
 店は大いに繁盛した。
 歌人・加藤千蔭、村田春海【むらたはるみ】、儒者・亀田鵬斎、戯作の大田南敏【おおたなんぼ】(蜀山人)、詩人・大窪詩佛【おおくぼしぶつ】、画家・酒井抱一たちに贔屓にされただけでなく江戸千家の家元・川上不白や千柳菊且などの紹介で大名や有力な旗本の屋敷にも出入りして大いに儲けた。歌舞伎の世界で「顔」をつくっておいたに違いない。
 盛大に骨董市を開いて投機的・賭博的でありすぎるとされて当局からあげられたこともあり、本所中之郷(向島1丁目)に引越して名前をまたまた菊屋宇兵衛と変えたというから金のためにニセ物をつかませるようないかがわしい商いもやっていたと思われる。この改名で「菊宇」と呼ばれるようになり、頭を丸めて「帰空」となり、これでは縁起が悪いからと「菊塢」にしたという。
 42歳前後のことで、隠居する形をとって墨田川の堤の下の葛飾郡寺島村で売りに出ていた旗本・多賀高国の1町歩(3000坪=1ヘクタール)の屋敷を買ってテーマ・パークをつくり、これが「向島百花園」として現在まで残ることになった。


 菊塢は文化元年(1804)に『盛音集』という詩集を刊行した。有名な友人知己にたのんで詩を書かせて1冊にまとめたもので菊塢は編著者といったところだが、これが翌年に開くテーマ・パークの前宣伝になった。なかなか抜け目のない男である。
 菊塢が開いた植物園は秋の七草を集めて最初は「秋芳園」と称していたが、やがて梅を植えて梅園にしたから「新梅屋敷」「花屋敷」などと呼ばれるようになった。
 先に述べた有名な文人や画家にねだって梅の木を1本ずつ寄附してもらった。実を売って生活費にあてようとする巧妙な作戦であり、みずから「梅屋主人」とか「梅の隠居」と称して文政11年(1828)には自家版『墨水遊覧誌【ぼくすいゆうらんし】』を出版して自分の「新梅やしき」をさりげなくPRした。
 ちょうどこのころ江戸という都市の機能が変わりはじめた。
 「江戸時代も半ばをすぎた宝暦(1751〜64)の頃から江戸の都市機能は人口の大集積に対応するため最高に達し、上方文化の変型といわれた初期文化とは全く異質の、真の江戸文化が成長し(中略)従来は貴族的趣味とされていた園芸への関心が大衆化し、その目的のためにさらに風流繊細をきわめた自然との出会いの場をつくるようになった」(『向島百花園』前島康彦)
 菊塢のテーマ・パーク「百花園」創立は時代のニーズにかなっていたということである。


 開園10年も経つと梅は1000本近くなり全盛時代を迎えるが、菊塢は参集する文人墨客【ぶんじんぼっかく】がこぞって作庭構想を語り合い実現してゆくにまかせた。池の形、樹や草を植える位置、路の柵は青竹素縄で結うなど次々と素朴ながら洗練されたイメージを追加していった。
 百花園のロケーションはもともと利根川の扇状地だから起伏はない。庭は草木だけの平庭なのだが菊塢は中国最古の詩集『詩経』や『万葉集』に登場する植物や諸国の名花を集めた。由緒のある草も雑草もさりげなく園内に配したり春の七草、秋の七草の植込みを設けたり四季を通して花のない日がないようにし、風流な文人趣味の気配を濃厚に打ち出した。
 ために「麗【れいれい】しく作り立てたる花園より一入雅致【ひとしおがち】ありとて、風流めかして花見んと来る人、入かはり立ちはりいと繁昌せり」(『野辺の白露』坂田篁蔭)という。菊塢は単純に植物を愛しむだけでなく庭に文学性というテーマを持たせて茶代を稼ぎ出したのである。
 とこうするうちに文政12年(1829)3月13日には十一代将軍・家斉の「お通りぬけ」があり、弘化2年(1845)正月18日には十二代将軍・家慶の梅見の「御成り」があった。よほどの評判であり、となると来園者が一層多くなったのは当然だろう。菊塢の作戦勝ちである。
 その菊塢も天保2年(1831)8月29日、70歳で没し、百花園はその子が継ぐことになった。以後代々佐原平兵衛を名乗り「菊塢」の号も継承した。
 が、冒頭の榎本武揚が訪れていた明治30年(1897)代末ごろから人気を失った。隅田川以東の地域が工業化されて植物が打撃を受けたことと生活が洋式化されて日本的な文化の価値が脇に置かれるようになったためで、明治43年(1910)の隅田川の洪水にも手ひどい打撃を受けて百花園は経営難に陥った。
 この苦境を救ったのは小倉石油株式会社社長・小倉常吉であった。文化性の高い名所をつぶしたくない、ということから百花園を買いとった。大正4年(1915)のことである。
 昭和9年1月に小倉常吉が亡くなると未亡人はこれを東京市に寄附し、現在は都の公園課の管理下にあって百花園は都民の心を愈しつづけている。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『戦国なるほど人物事典』(PHP)など多数。
ご意見・ご感想などは
office-izumi@w8.dion.ne.jpまで。



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