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第41回 暗夜を憂うるなかれ
●西郷隆盛の財政論●
文/撮影 泉秀樹



西郷隆盛

 西郷隆盛は鹿児島の市街を貫流する甲突川【こうつきがわ】にそった下加治屋町(現在の加治屋町)で生まれた。文政10年(1827)12月7日のことである。父は御小姓与【おこしょうぐみ】・吉兵衛、母は満佐。貧しい下級武士の家庭で長男・隆盛の下に6人の弟妹が生まれた。
 18歳のとき隆盛は郡方書役助【こうりかたかきやくたすけ】(収税書記見習い)になった。
 20歳のとき地方まわりをして農家に泊ったことがある。夜中に厠に行くと、牛小舎から泣き声がきこえた。その家は不幸つづきで4年間飼っていた牛を売らなければならず、別れを惜しんでいるところだった。隆盛は持ちあわせの金をあたえ、奉行所へ帰ると奉行に年貢減免【げんめん】方を要求したという。
 やがて藩主・島津斉彬【なりあきら】に見出されてお庭方に抜擢された。お庭方は藩主の私用を足す秘書官であり、隆盛はそばにあってすぐれた開明君主であった斉彬に大きな感化をうけ、また斉彬のはからいで水戸の藤田東湖、戸田蓬軒【ほうけん】など一流の人物に接して人格をみがいた。身長180センチ、体重110キロ。肉体も巨漢に成長したが、隆盛は斉彬によってその精神と能力も大きく成長させたのである。
 以後隆盛の活躍はすさまじいばかりである。
 元治元年(1864)の禁門の変、長州征伐、大政奉還、王政復古、そして戊辰戦争と勝海舟との談合による江戸城無血開城。橋本左内、坂本龍馬、桂小五郎(木戸孝允)などの協力によって、明治維新の実現をはかった主役中の主役となった。
 しかし、新政府はすぐ腐りはじめた。それが許せなかった隆盛は引退して鹿児島へ帰り、日当山【ひなたやま】温泉で犬とともに狩りや釣りを楽しんだ。
 新政府は多くの問題をかかえていた。先に述べたような権力中枢の腐敗、利権争い、それに対する旧士族の反感、財政の行きづまり、不景気とスタグフレーションなど社会の基本的な問題である。
 わけても大政奉還、王政復古の仕上げは難しい問題で、新政府首脳は頭をいためた。というのは「大政」を朝廷に「奉還」はしたものの大名がそのまま存続していたからだ。
 これらの「藩」は「県」に変え、その「県」を新政府の「県令」(知事)が直接支配する形を整えなければ近代国家とはいえない。

 隆盛の存在をバックにこの廃藩置県を実現させると岩倉具視、木戸孝允、大久保利通、伊藤博文らは欧米へ旅立った。不平等条約改正と視察が名目で隆盛はその留守を参議筆頭(実質的な総理大臣)としてあずかった。
 隆盛は徴兵制と司法(警察)制度を確立、宮中を粛正し、学制を発布、地租を改正するなど次々と新しい政策を打ち出した。
 このころ隆盛は日本橋小網町の広大な敷地に4、5室の家を数軒建て、みずからその1軒に住み、残りの家には有能な書生を住まわせた。着るものは綿服に小倉の袴、草履ばきで、下僕と徒歩で出仕していたという。
 そうこうするうちに隣国・朝鮮との関係がキナ臭くなってくる。征韓論をめぐる会議は紛糾したが、結局、隆盛は敗れて参議をやめた。板垣退助、江藤新平、副島種臣らも辞任してここに大久保、伊藤らの主導権が確立した。
 鹿児島へ帰った隆盛は「私学校」を設立した。天皇からもらっていた二千石を設立運営資金にあてた。それは、篠原国幹を主宰者とする「銃隊学校」と、村田新八を主宰者とする「砲隊学校」であり士官養成学校=私設軍隊であった。
 当然のことながら大久保を中心とする新政府は神経をとがらせた。私学校がクーデターをもくろむ危険な過激派集団と映った。不安の種は、私学校だけではなかった。明治9年(1876)には神風連の乱、秋月の乱、萩の乱と暴発がつづいていた。隆盛はこのあと西南戦争の主役として死ぬことになる。


 坂本龍馬とともに暗殺された中岡慎太郎は隆盛をこう評している。
 「学識あり、胆略あり、常に寡言にして最も思慮深く、雄断に長じ、たまたま一言を出せば確然人の肺腑【はいふ】を貫く、且つ徳高くして人を服し、しばしば艱難【かんなん】を経て事に老練す」
 こういう人物を敵に回すことを新政府がおそれたのも無理はないが、では、国家運営や行財政を、隆盛はどう考えていたのか。
 まず、官僚の登用についてこういう。
 人間の世界は10人に7、8人は小人であり、彼等は小人の情をよく理解しているからこれを小さな職につけたらよい。藤田東湖先生は「小人ほど才芸があり便利な者はないからこれを使わない術はない。といっても、長官にして重い職を与えたりしたら国を滅ぼしてしまうから、決して上に立ててはいけない」といった、という。

(人材を採用するに(中略)世上一般十に七八は小人なれば、能く小人の情を察し、其長所を取り之を小職に用い、其材藝【そのさいざい】を盡【つく】さしむる也。東湖先生申されしは「小人程才藝有りて用便なれば、用ひざればならぬもの也。去りとて長官に居ゑ【すえ】重職を授【さづ】くれば、必ず邦家【ほうか】を覆【くつがえ】すものゆゑ、決して上には立てられぬものぞ」と也=『西郷南洲遺訓』より・以下同じ)

 また、万民の上にある政治家役人は、おのれを慎み、品行を正しくし、奢りたかぶりをいましめ、節倹につとめ、なにごとをするにも国民の見本たるべきであり、下働きしている者の勤労をやさしく見守らなければ政令は守られないという。

(萬民の上に位する者、己【おのれ】を慎み、品行を正しく、驕奢【きょうしゃ】を戒め、節倹を勉め、職事に勤勞して人民の標準となり、下民其の勤務を気の毒に思う様ならでは、政令は行はれ難し)

 さらに、徴収された税金は国の大本であり、すべての事業はこれから生じる国家運営の要であるから、慎重に扱うべきである。大きくいえば、収入を量って節約するほかに方法はない。一年の歳入からすべての制限額を定め、国家予算の責任者は定めた額から超過させてはならない。そうせずに時の勢いに流されて制限をゆるくして支出を見て収入を計ると、国民の貴い血を絞りとる以外に方法がなくなる。そのため事業はうまく発展するように見えるかもしれないが、国が衰えて救いようがなくなってしまうという。

(會計出納は制度の由て立つ所ろ、百般の事業皆な是より生じ、經綸【けいりん】中の樞要【すうよう】なれば、慎まずばならぬ也。其大體を申さば、入るを量【はか】りて出ずるを制するの他更に他の術數無し。一歳の入るを以て百般の制限を定め、會計を總理する者身を以て制を守り、定制を超過せしむ可からず。否【しか】らずして時勢に制せられ、制限を慢にし、出るを見て入るを計りなば、民の膏血【こうけつ】を絞るの外有る間敷也【まじきなり】。然らば假令【かりそめに】事業は一旦進歩する如く見ゆる共、國力疲弊して濟救す可からず)

 さて、この税金の問題だが、隆盛は税金を安くして庶民を豊かにすれば国力がつくという。国の出費がかさんで予算が足りなくなっても、税金の率は上げないで、上が損をし、下をいじめてはならない。予算不足のときは、悪知恵にたけた小ざかしい役人がたくみに税金を取り立て、金勘定のうまい役人がよいとされるが、庶民をいじめるから、庶民は苦しんで徴税から逃れようとし、自然にズルくなってお上をだまそうとし、官民が仇敵同士になる、と。

(租税を薄くして民を裕【ゆたか】にするは、即ち國力を養成する也。故に國家多端【たたん】にして財用の足らざるを苦むとも、租税の定制を確守し、上を損じて下を虐【しい】たげぬもの也。能【よ】く古今の事跡を見よ。道の明かならざる世にして、財用の不足を苦む時は、必ず曲知小慧【きょくちしょうけい】の俗吏を用ひ巧【たく】みに聚斂【しゅうれん】して一時の缺乏【けつぼう】に給するを、理財に長ぜる良臣となし、手段を以て苛酷に民を虐たげるゆゑ、人民は苦惱に堪へかね、聚斂を逃んと、自然譎詐狡猾【きっさこうかつ】に趣き、上下互に欺【あざむ】き、官民敵讐【てきしゅう】と成り、終に分崩離析【ぶんぽうりせき】に至るにあらずや)

 隆盛さん、あなたは「一燈【いっとう】を提【ひっさ】げて、暗夜を行く。暗夜を憂ふる勿【なか】れ、只【た】だ一燈を頼め」ともいいました。
 しかし、いま、日本人には「一燈」もありません。どうすればいいのでしょうか。
 隆盛さん! 教えて下さいよ!



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『戦国なるほど人物事典』(PHP)など多数。
ご意見・ご感想などは
office-izumi@w8.dion.ne.jpまで。



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