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第42回 万民の安全のために30年を使う
●「青の洞門」を掘り抜いた禅海●
文/撮影 泉秀樹



禅海像

 菊池寛の名作『恩讐の彼方に』は、人を殺した男が逃亡して出家し、豊前【ぶぜん】(大分県)の山国川【やまくにがわ】(争流川)の渓谷の難所に洞窟を掘りはじめる物語である。殺された男の息子は彼を仇と狙ってここまで追跡して仇討ちをしようとするが、洞窟を掘り抜くまで待ってくれといわれる。
 そして一刻も早く仇を討つため洞窟を掘る仕事を手伝い、ついにそれは完成するのだが……。
 是非改めて読んでもらいたい小説だが、その主人公のモデルになった真如庵禅海は俗名不明である。禅海は貞享4年(1687)越後(新潟県)高田に生まれたといわれ、父は武士で福原勘太夫といった。25歳のときなにか不始末を仕出かして父に勘当され、逃げるようにして江戸に出たという。
 一家で移住したともいわれるが、本人は「本国武州江戸浅草住・祖先越州【えっしゅう】高田福原氏」と称していた。江戸では旗本・中川四郎兵衛に仕えて浅草に住んだのだが、激しい性格であったらしくこの中川氏を殺害(理由不明)して逃亡することになった。
 おそらく逃亡生活に好都合であったからだと思われるが、彼は出家して禅海と名乗り、諸国を経【へ】めぐる旅をつづけた。収入はないから寺々を渡り歩いたりお布施で食いつないだのだろう。が、父母の死に遭ったため出家して仏法修行をする回国行者【かいこくぎょうじゃ】になったともいわれたり、要するに前半生がよくわからない人物である。


 とにかく禅海は享保19年(1733)豊前にたどりついて羅漢寺(大分県中津市本耶馬溪町【ほんやばけいまち】)に詣で、そこに極めて危険な難所があることを知る。
 激流岩を噛む山国川に沿って垂直に切り立った競秀峰【きょうしゅうほう】の断崖絶壁の足もとの「青の鎖渡【くさりど】(鎖戸)」である。
 「翠屏【すいへい】削るが如く、峻峰天【しゅんぽうてん】を刺し、連山東に走り、山足河川【さんそくかせん】に偃伏【えんぷく】して、更に道すべからず」(『羅漢寺の記』島芳国)といえば文学的ではあるが、実際は岩裾に張られた鎖を握って一歩々々切り立った絶壁の下の岩から岩へと伝ってゆく恐しい難所で、雨で山国川の水量が増えると流れにさらわれて死ぬ旅人が少なくなかった。
 なぜそんな決心をしたのか定かではないけれども、そこで禅海はとんでもないことを考えついた。
 禅海は鎖渡の難所を鑿【のみ】で掘り抜いて人々が安全に往き来できる洞門を開鑿【かいさく】しようという大誓願をたてた。川の流れにおびえることなく女子供でも安心して旅ができる安全な道を開こうと考えたのである。
 さすがに禅海もこの大事業を一人でやれるとは考えていなかった。村人たちをたずねて協力を求めた。
 しかし、禅海の呼びかけに、一人も応じようとはしなかった。鎖渡を掘り抜くなどという無謀な計画はただ非常識で実現不可能だと感じたからで、いくら働いても一文にもならないのである。誰が考えても禅海の誘いにこたえないことの方がまともだといえた。そして誰も禅海を相手にしないで放っておくだけでなく、物笑いの種にした。狂気に追われている男だと思ったからだ。
 やむなく禅海は鎚と鑿を持って一人で岩に立ち向かった。
 これが享保20年(1735)のことで、禅海はすでに49歳になっていた。現在の60歳から62、3歳に相当し、当時の感覚からいえばかなりの老人である。
 この老僧が鎚をふるって岩を穿【うが】ってゆく。
 金のある大名から資金を借りたわけではないし、村人の力を借りることもないたった一人の戦いである。非力な老人であったから岩盤を一尺(30センチ)掘り進むのに何日も何日もかかった


 左手に鑿、右手で重い鎚を振りあげ、力いっぱい振りおろす隧道【ずいどう】掘りは辛い。雪混じりの雨、夏の湿気と暑熱にも苦しめられなければならない。それは宗教心にもとづく行動だったが同時に無数の人々を救う自我を捨てた無償の行為でもあった。みずからの肉体を飢えた動物たちにあたえる仏陀のありかた(捨身供養【しゃしんくよう】)を目ざしていたようにさえ思われる。
 並大抵ではできない工事が黙々と続けられ、少しずつ隧道らしき穴ができてきたとき、村人の心も僅かずつ穿たれて少しずつ変化が起こってきた。
 禅海の隣に座って黙って岩に鑿をあてて鎚を振りおろす者が出てきたのだ。
 禅海の姿に心を打たれた者たちは日を追って増えていった。
 「痴と笑ったものが和尚(禅海)と共に鎚を振ひ、狂と誹【そし】った者が狂人のあとを追った」(『禅海和尚鑿道碑文』より)
 「其誠意怠【おこた】らざれば次第に人感化し吏民力を合する事ともなり、石工の僕出来り」(『梅園拾葉』三浦梅園)
 次々と禅海を手伝う者が洞窟掘りをやったり、金を出したりするようになって工事は順調にはかどった。
 そして30年の歳月をかけて明和元年(1764)に鎖渡の掘削は終了して「青の洞門」が完成した。
 禅海は78歳になっていた。  その10年後の安永3年(1774)8月24日、禅海は88歳で大往生を遂げた。

 さらに10年後の天明3年(1783)このあたりを旅行した幕府巡見使・古川古松軒【ふるかわこしょうけん】がおもしろい話を古老から聞き出している。
 「此穴道を往来せし者は、一人にて四文、牛馬には八文づつとりし事にて、善海(禅海)坊、後には金の百両許【ばか】りも集めて、羅漢寺(剛智寺=禅海堂)におゐて死せしと土人【とちのひと】物語りぬ」
 禅海は青の洞門を有料道路にして金を貯めて寺におさめていたということか?
 富岡鐵齋が洞門を通ったときに禅海をたたえる詩をつくっている。
  巌聳淵深路不通
  年々行旅溺其躬
  杜多禅海眞慈善
  手鑿洞門立偉功

   いわおそびえふちふかくしてみちつうぜず
   ねんねんこうりょそのみをおぼらす
   つだぜんかいはしんにじぜんなり
   てずからどうもんをうがちていこうをたつ



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『戦国なるほど人物事典』(PHP)など多数。
ご意見・ご感想などは
izumi-office@w8.dion.ne.jpまで。



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