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第43回 「お助け普請」の効果
●「藤野四郎兵衛の難民救済事業●
文/撮影 泉秀樹



 近江国愛知郡日枝村【えちぐんひえむら】(滋賀県犬上郡豊郷町【とよさとちょう】)を通る中仙道沿いにひときわ目立つ白い漆喰【しっくい】の長屋門がある。すぐ横に「又十【またじゅう】屋敷」という看板が立っていて古い木造家屋の大きな丸みを帯びたむくり屋根とその裏手にそびえる背の高い楠【くすのき】が目に入る。
 この「又十屋敷」は「豊【ゆたか】会館」と呼ばれる豊郷町の歴史民芸史料館で「又十」の屋号を使った近江商人・藤野四郎兵衛(良久)が天保年間(1830―44)に建てた。
 この豪壮な屋敷について語る前に、四郎兵衛の父・喜兵衛(喜良)のことから話さなければならない。
 日枝村の農家に生まれた喜兵衛は、12歳のとき姉の嫁ぎ先である呉服屋に丁稚奉公したのち20歳で蝦夷・松前郡福山(北海道松前郡松前町福山)に渡ってその支店に勤めた。寛政2年(1790)のことである。
 10年後の寛政12年(1800)勤めをやめて独立した喜兵衛は同じ松前の枝ヶ崎町に「又十」の商標で「柏屋」を創業し、蝦夷の物産の運輸売買を行なった。
 そして大いに稼いで文化2年(1805)までの6年間に大小の船7隻を買ったり建造したりした。
 船主になった喜兵衛は松前家に願い出て 余市【よいち】、岩内【いわない】、利尻【りしり】、千島【ちしま】、国後【くなしり】などの場所を請負った(漁業権を獲得した)。喜兵衛は手つかずの奥蝦夷へ進出して鮭や鱒、昆布などを大量に水揚げして敦賀【つるが】(福井県)や下関(山口県)、兵庫、大坂などへどんどん運んで巨利を得た。
 松前家中の信頼を得た喜兵衛は文政5年(1822)奥州・梁川【やながわ】に領地替えとなっていた松前章広が松前に復帰するときには持ち船であった常昌丸を御座船【ござぶね】として松前家に売却した。
 そして章広がこの船を使用したあとは喜兵衛が預り、長者丸と改称した。このとき蝦夷における藤野家の漁業権は不動のものとなったのである。
 が、文政11年(1828)9月喜兵衛は44歳という若さで病没してしまった。  そのあとを受け継いだのが当年13歳の四郎兵衛である。
 成長するにつれて父を超える度胸と商才を発揮して根室、色丹、択捉などの漁場にも進出し、やがて松前家は根室の海上差配をすべて四郎兵衛に委託するに至る。請負場所(漁場)はこの根室をはじめ花咲、野付【のつけ】、標津【しべつ】、目梨など31か所にのぼった。
 クッタルウス、ツコタン、モトバウサン、ポンサキムイなど新しい漁場を開発する一方、万延元年(1860)には漁網の改良にも取り組んで四郎兵衛は建網漁法を研究完成した。これによって漁獲高はすさまじい増大を見せ、その利益もすさまじい金額になった。
 蝦夷の物産は日本海を走り、敦賀に陸揚げされて七里半街道を山越えして琵琶湖北岸の海津【かいづ】におりて再び船に積まれ、宇曽川に入って流れを溯【さかのぼ】り、日枝村まで運ばれた。十数棟も立ちならんだ蔵に出入りする荷は「又十」のマークの入った二十四反帆【たんぼ】に風を受け、船で日本全土に向ったのである。


 天保2年(1831)の東北の長雨による凶作につづいて翌年の浅間山の大噴火による降灰とその影響による凶作、さらに毎年つづく冷夏と米の買占めによる人災が加わってついには『大塩平八郎の乱』までひきおこされた天保の飢饉のとき、近江の人々も貧困と飢えにあえぎ、餓死者が多数出て疫病も蔓延した。
 この貧窮と飢餓のどん底にあって四郎兵衛は屋敷の建てかえをはじめた。それも冒頭で述べたようにとびきり贅沢なむくり屋根をのせ、文庫蔵をそなえた屋敷や巨石をふんだんに使った宏壮贅沢な庭園をつくりはじめたのだ。
 彦根・井伊家の領内の出来事であり、十五代藩主・直亮【なおあき】(井伊直弼の兄)は四郎兵衛の湯水のごとく金をかけた普請のことを知ると激怒した。激怒しただけでなく「諸人飢えに泣くとき邸宅を普請するがごときは譴責【けんせき】すべし」と奉行をさしむけた。
 四郎兵衛の真意を問いただすべく現場に急行してみると、そこでは職人や日雇人夫に過分の労賃が支払われ、食糧を充分にあたえられたうえにその家族にまで食事があたえられていた。
 普請は難民救済の「飢饉普請」であり「お助け普請」であった。公民のために一私人が公共事業を興して天災や飢餓と戦っていたということで、これには怒っていた直亮も逆に感心したという。
 公共事業であると同時に現代的にいえばこれは「アウトソーシング」の原型である。アウトソーシングとは、何らかの戦略を持って業務を外注することをさす。
 アメリカが80年代に今世紀最悪といわれた大不況を乗り越えた方法はさまざまあったが、なかでも大きな理由の一つに上げられているのがアウトソーシングである。
 各々の企業の規模はリストラなどで縮小して、ある特定の部門だけを他の企業に外注する。このことによって他の小さな企業が潤い、失業者が激減した。さらに各企業やその社員がその分野ごとのスペシャリストとなり得るのである。驚くべきことにアメリカの場合、外注する部門の多くは経理や情報管理などその企業の根幹に関わる分野であった。このことによってより効果的、経済的、合理的に健全な経営がなされるという意外な効果が出たのである。
 その後、藤野家はさらなる漁場の開発に努め維新の動乱を乗り越えて藍綬褒賞、勳四等瑞宝章を授けられた。公益に尽くし、蝦夷という荒蕪【こうぶ】の地を繁栄に至らしめた功を評価されたのである。場所は違っても「お助け普請」と同じようにその地の民に職と食をあたえたことはいうまでもない。


 四郎兵衛は仕事はなにごとも厳格にやって「鬼の四郎兵衛」と恐れられた。そうでなければ海の荒くれどもを統率できなかっただろう。
 もちろん計数にも明るかった。
 しかし、厳格な仕事ぶりとは対照的に情の人であったらしく、明治になってから四郎兵衛に金を借りた記録が出てきて、借りた人の子孫がウチは四郎兵衛さんに金を借りたまま返さなかった、と驚き恐縮したという話も伝えられている。四郎兵衛は困窮している者に貸した金の返済を催促しないことがあったのだ。
 また井伊家からの要請で殖産興業のために磁器を焼いて「湖東焼き」として売り出す藩窯【はんよう】をつくったときに出資したと伝えられる。出資というより運上金として召しあげられたのかもしれない。おそらく今の金に換算すれば億単位であったにちがいない(湖東窯はのちに失敗して消滅)。豪気な旦那衆【だんなしゅう】の金銭感覚で現代ではとても考えられない。自分たちだけが儲かればよいという下卑た人物が次々とテレビを賑わしている現代日本に、四郎兵衛のような素晴らしい金の使い方をする人物の出現を夢見ても意味ないか?



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『歴史人物・意外な「その後」』(PHP)など多数。
ご意見・ご感想などは
izumi-office@w8.dion.ne.jpまで。



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