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第44回 「麦飯男爵」の挑戦
●脚気撲滅と医師養成に生きた高木兼寛【たかきかねひろ】●
文/撮影 泉秀樹



英国に留学していたころの兼寛

 「ビヤウシヤオオシ カウカイデキヌ カネオクレ(病者多し 航海できぬ 金送れ)」
 明治16年(1883)ニュージーランド、南米、ハワイを歴訪していた軍艦・龍驤【りゅうじょう】から打たれた緊急電報である。
 練習航海に出ていた龍驤の乗組員376名のうち169名が重症の脚気【かっけ】になり、うち25名が死亡していた。軍艦は航海不能となり、艦長をはじめ下士官が交代で缶【かま】に石炭を投げこんでようやくホノルルまでもどった。龍驤はホノルルに1か月間停泊し、新しい肉や野菜を食べた乗組員はようやく回復して9月15日にやっと品川に帰港できた。
 脚気はビタミンB1欠乏症で末梢神経障害を起して下肢がしびれむくむ(浮腫【ふしゅ】)ため「脚気」と呼ばれ、最終的には心不全で死ぬことは、今では常識であるが、このころはまだ原因不明の難病とされ、未発見の細菌が原因になってひきおこされる病気だと考えられていた。
 龍驤帰港からちょうど20日後に海軍医務局長に就任した高木兼寛は、すでに研究を開始していて脚気の原因は細菌ではないと考えていた。


 高木兼寛は嘉永2年(1894)9月15日、日向国東諸県郡穆佐村白土坂【ひゅうがのくにひがしもろかたぐんむかさむらしらすざか】(宮崎県宮崎市高岡町合併特例区)に生まれた。
 父・喜助、母・園の長男である。
 東諸県郡は日向だが薩摩に属しており、父・喜助は下級武士で給禄が少ないため大工を生業【なりわい】としていた。兼寛は幼いころから大工の手伝いをしながら漢学や剣を学び、医学に志を抱くようになり、17歳のとき鹿児島の蘭方医・石神良策の門弟となった。
 3年後の慶応4年(1868)鳥羽・伏見の戦い。
 兼寛も師の石神良策とともに薩摩藩小銃九番隊付軍医として従軍することになった。
 が、ほとんどが漢方医だったから戦傷には役立たず、死亡者が多く出たため、英国公使館付医官W・ウィリスに治療を依頼した。
 そのクロロホルム麻酔とカメレオン消毒水(過マンガン酸カリ)とあざやかな手術に、兼寛は深い感動をおぼえた。
 そして、戦後鹿児島につくられたウィリスを校長とする鹿児島医学校(鹿児島大学医学部の前身)で学び、助手や通訳として働いた。
 さらに兼寛は海軍・軍医寮(医務官)になった師・石神の取り立てで明治5年(1873)4月から海軍・軍医となった。
 海軍で兼寛が驚いたのは脚気患者の多さとその死亡率の高いことだった。海軍病院では海軍軍人1552名中、年間延べ6348名もの脚気患者がいた。1人が年平均4回脚気にかかって治療も思うにまかせず苦しんでいたのだ。
 兼寛が幸運だったのは、翌年海軍病院内に設けられた軍医療学会(医学校)に教授として招かれたW・アンダーソンと出会って英国のセント・トーマス病院医学校(以下/S・T医学校)に留学できるように紹介状と推薦状をもらえたことだ。
 明治8年(1875)6月13日、兼寛は神戸を出発した。そしてS・T医学校で最新の医学を懸命に学んだ兼寛は、明治13年(1880)11月5日に帰国した。留学中13の優秀・名誉賞を受賞し、生涯誇りにしたF・R・C・S(ロイヤルカレッジ・オブ・サージアンス・フェローシップ)の称号をみやげに。
 このとき31歳の兼寛はただちに海軍中監医(海軍軍医中佐)として東京海軍病院・院長を命じられた。


 兼寛は海軍を蝕【むしば】んでいる脚気の調査を開始した。
 着衣や住空間、季節や気温や羅病者【りびょうしゃ】の階級などのデータを集めた。
 すると、階級の低い水兵や下士官に羅病率が高く、士官以上はほとんど脚気になっていないことがわかった。
 水兵の食費は18銭(士官40銭、囚人9銭)だった。山盛りの白米と塩辛いタクアンで8銭、残り10銭は水兵たちに金で渡していることもわかった。さらに、イギリス海軍には1人も脚気がいないことも判明し、これは食生活を改善しなくてはならないと兼寛は考え、水兵たちにイギリス風にパンと肉と野菜を食べさせることを提案した。
 ちょうどこのころ軍艦・龍驤から「ビヤウシヤオオシ カウカイデキヌ カネオクレ」という冒頭の悲痛な電文が舞いこんだのである。
 明治16年(1883)11月、兼寛は伊藤博文に頼んで明治天皇に直訴した。軍艦・筑波が龍驤と同じコースで練習航海に出るが、乗組員全員に白米ではなく麦飯を食べさせる新しいメニューの食べ物をあたえたいと申し出たのだ。
 その航海実験は、50日ほどでニュージーランド、さらにチリまで60日、そしてハワイから電報が届いた。
 「ビヤウシヤ イチニンモナシ アンシンアレ(病者 1人もなし 安心あれ)」
 脚気が栄養不足のために起る病気であると立証されたが、これに反対したのは陸軍である。
 陸軍軍医総監・石黒忠悳【ただなお】とドイツ留学から帰国したばかりの鴎外・森林太郎はその急先鋒【きゅうせんぽう】で、東大医学部衛生学教授・緒方正規【おがたまさのり】に至っては「脚気病菌」を発見したという論文まで書いた。
 鴎外もまた『日本兵食論大意』を発表して日本食は人体を養い、心力、体力を活発する点において西洋食に劣らないと書き「非日本食論ハ将ニ其ノ根拠ヲ失ハントス」(「非日本食論損失其根拠」)と断じた。
 しかし、戦争が兼寛の栄養説を実証した。
 日清戦争では中国に渡った米食の陸軍の脚気の死者4千名、海軍ゼロ。
 日露戦争の陸軍の死者約4万7千。
 傷病者35万8千余名。うち死者3万7千で、2万7千名は脚気によって死んだ。海軍はこのときも脚気による死亡者はほとんどいなかった。
 この功績で兼寛は男爵に叙【じょ】され、人々は彼を「麦飯男爵」と呼んだ。
 兼寛は東京慈恵会医科大学の前身となった有志共立東京病院、日本最初の看護学校を設立して看護婦教育に貢献し、日本で最初の医学博士の学位をあたえられた。また、故郷の宮崎神宮造営にも尽力し「祓【みそぎ】」の研究でも知られる。徹底した実証主義で脚気を征服した功績をたたえてイギリス南極地名委員会は南極半島先端の岬のひとつをTakaki Promontory(高木岬)と命名した。
 日本医学の先駆者【せんくしゃ】である兼寛のモットーは「病気を診ずして病人を診よ」であった。現代の医師は病人ではなく病院経営ばかり見すぎてはいないか。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『歴史人物・意外な「その後」』(PHP)など多数。
ご意見・ご感想などは
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