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第45回 「大風呂敷」の意味
●壮大な帝都復興案を計画した後藤新平●
文/撮影 泉秀樹



後藤新平

 大正12年(1923)9月1日午前11時58分40秒。伊豆、大島、相模湾を震源とする直下型地震が関東地方を襲った。
 死者・行方不明10万5000余、避難人数190万、全壊家屋10万9000余、半壊10万2000余、焼失家屋21万2000余。能登半島付近にあった台風に伴う強風によってひろがった火災の死傷者が多かった。
 この関東大震災によって東京の都心部と下町はほぼ全域が焼失、不況下の日本経済も甚大な被害をあたえられて昭和恐慌の遠因になった。
 そしてこの戦前における世界最大の都市大火で壊滅した帝都の復興計画に燃えるような情熱をもって取り組んだのは後藤新平であった。「日本の近代都市計画の父」と呼ばれることになった人物である。

 後藤新平は安政4年(1857)6月4日、陸中・胆沢郡塩釜村(岩手県水沢市吉小路)で生まれた。代々留守家【るすけ】の家臣で父・実崇は類続改役【るいぞくあらためやく】、母は利恵。武よりも文の系統で後藤の本家からは高野長英が出ている。
 子供のころの新平はよくいたずらをして木に縛られたり納屋に押し込められたりした。
 明治2年(1869)新平13歳のとき主家である留守家が削封【さくほう】され、後藤家も武士の身分を失って帰農し、平民となった。
 18歳で須賀川医学校(福島)に入学、翌年には五等医生(月給5円)、20歳で名古屋の愛知病院の三等医として医局診察専務(月給10円)になり、明治10年(1877)には医術開業免状を取得した。
 また、この年の2月に勃発した西南戦争の負傷者を収容する大阪陸軍臨時病院の雇医【やといい】(日給60銭)として働き、戦争が終ると名古屋鎮台病院の雇医(月給25円)になった。
 25歳で愛知県医学校長兼病院長(月給25円)に就任し、医師として順調に出世したが、その翌年の明治15年(1882)大きな事件と遭遇する。自由民権運動を展開していた板垣退助が岐阜で暴漢に刺され、現場に急行した新平はその傷の手当てをしたことから政界とかかわりを持つことになるのである。
 やがて『普遍生理衛生学』『国家衛生原理』などの著作を発表、明治23年(1890)にドイツに留学し、コッホのもとにいた北里柴三郎に黴菌学【ばいきんがく】を学んだ。
 そして、帰国して内務省衛生局長になったものの詐欺事件(相馬事件)に関係して収監され、のちに無罪となるという躓【つまず】きも経験した。


 新平は42歳で台湾総督府・民政局長に任命された。総督・児玉源太郎に見込まれて以後9年間を台湾統治に専念したのである。
 道路、都市整備、港湾整備、鉄道敷設、上下水道整備をはじめ製糖、林業、鉱業などの産業を興し、病院、医学校、中央試験場を設立した。その根本理念はそれまで医師として生きてきた「生物学的原則」であった。大胆に台湾城、台北城の城壁を取り払って12車線の環状道路をつくり、宗主国である日本のそれよりもみごとな上下水道を整えた。さらに有名なのは阿片対策で、新平は「阿片漸禁【ざんきん】策」をとった。阿片をただちに厳禁するのではなく、徐々に禁止していき、阿片を喫う者には税金をかけるという案で、これもまた「生物学的原則」に基づいていた。

 新平はこのあと満鉄初代総裁、鉄道院総裁、東京市長、東京放送局総裁、逓信大臣、内務大臣、外務大臣、第二次山本権兵衛内閣の副総理格を歴任、そのいずれの地位にあっても大きな功績をあげた。
 それらの業績のすべてに触れることはできないから、関東大震災に話をもどすと、新平は震災直後にかねてから親交のあったアメリカ外交史の専門家で『東京市政論』をあらわしたアメリカのチャールズ・ビーアド博士に連絡をとった。
 ビーアドは「ただちに新街路を決定せよ。それまで家を建てさせてはならない」という電報を打ち返してきた。
 震災の翌日である9月2日夜、第二次山本内閣が成立し、新平は内務大臣に就任した。その日のうちに新平は壊滅したけれども帝都は他へは移さない、復興費30億円、欧米の最新の都市計画を導入すること、復興計画実現のため地主に断固たる対応をすることを決めた。震災を「理想的帝都建設の為の絶好の機会」と考え「復旧」でなく「復興」することが新平の基本的な考え方だった。
 その都市計画はまず皇居を中心として環状一号線(内堀通)、環二(外堀通)、環三(外苑東通り)、環四(外苑西通り)、環五(明治通り)、環六(山手通り)そして環七と環八をつくる計画であった。
 小石川の陸軍砲兵工廠【こうしょう】、戸山の陸軍士官学校、白金御料地など大規模な空間を公園とし、東京駅と宮城外苑を結ぶ行幸道路と議院通り、八重洲通りの三路線を設ける。その他の幹線道路は二十四間(43メートル)、二十間(36メートル)、十八間(32メートル)と定めた。
 さらに、隅田川を橋の博物館にしようと考えた。白鬚、吾妻、領国橋など一般から募集した個性の異なるデザインの橋を架けて観光資源にしようと目論んでいた。  こうした計画がそのまま実行に移されていたら、東京は世界でも屈指の高い機能性と文化性をそなえた都市に生まれ変わっていたことだろう。
 ただし、計画実現には最低7億200万円が必要であり、これを守旧的な長老政治家たちは山本内閣の政治的揺さぶりに利用した。基本的に新平の計画は金がかかりすぎるし、区画整理は国民の財産権を侵害することだと主張したのである。
 結果、新平の都市計画は大幅に縮小されてしまった。「復興」ではなく「復旧」に終ってしまったことは、いまの東京を見れば一目瞭然である。新平はこれを嘆いて「群盲の刹那主義的自慰」と怒った。そして都市計画には「攻究と英断と勇気が必要である」と語った。


 のちに新平は「政治倫理化運動」を展開する。現実の政党政治に対する嫌悪感から生まれた運動であり政治には高い理念が必要であることを説いた。
 既存の老朽化した法制に則【のっと】って軋轢【あつれき】を避け、安定をはかるためにもっぱら調整をたのみとする消極的な守成型リーダーは不要である。不用どころか害悪そのものではないか。
 新平はイデオロギーも党派も国家も超えた衛生、つまり「生を衛【まも】る」ところから発想した野放図に規模の大きな人間だったから人々は新平の先端的な発想を「大風呂敷」と呼んだのだ。
 新平は日に3回も4回も大礼服、燕尾服、背広などと鏡の前で着替え、おしゃれで毎朝床屋に髪と鬚を整えさせた。ユーモアのある人物だったというが、癇癪持ちだったともいわれる。まったく癇癪を起こさずにはいられないような無知と私利私欲が新平の前に立ちはだかっていたのである。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『歴史人物・意外な「その後」』(PHP)など多数。



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