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第46回 維新の原動力
●日本を支える若者を育てた吉田松陰●
文/撮影 泉秀樹



萩の町を見おろす松陰像

 吉田松陰(寅次郎)は天保元年(1830)長州(山口県)萩の城下に杉百合之助の次男として生まれた。二十六石取りの下級武士の家柄で五歳のとき百合之助の弟・吉田賢良(大助)の養子となった。吉田家(五十七石余)は杉家の宗家で代々山鹿【やまが】流軍学の師範をつとめていた。
 松陰は幼少時から秀才で、21歳のときに早くも藩主の前で『武教全書』の講義を行い、19歳のときには家学の師範つまり兵学家として自立した。
 嘉永2年(1849)3月、藩庁から異族防禦に関する意見をもとめられると「いわゆる理なるものは、古今彼我【ひが】にわたりて変ぜざるものなり」と答え、西欧の兵学を受け入れるべきだといった。もはや古くさい山鹿流だけでは時代の要請に対応できないことに気づいていたのである。
 松陰は長崎に留学し、つづいて江戸にのぼって佐久間象山についた。象山は当代最大最高の洋学者であり、松陰は洋学を学ぶとともに儒者・安積艮斎【あさかごんさい】、兵学者・山鹿素水【やまがそすい】にもついて学識を深めた。
 また、脱藩して親友の宮部鼎蔵【みやべていぞう】とともに東北を調査旅行した。ペリーが来航する前々年の嘉永4年(1851)のことである。
 安政元年(1854)ペリーがふたたび来航すると松陰は行動に出た。3月28日のことである。
 伊豆・下田港の弁天島の洞窟に隠れていた松陰と弟子の金子重輔は時をみて小舟を出し、120メートルほど沖にいるミシシッピ号をめざした。
 櫓がなかったので、フンドシで櫂を舟ばたにくくりつけて漕いだ。が、フンドシはすぐちぎれてしまった。次は帯でくくりつけて漕いだ。
 「午前2時ごろ(下田に入港していた)汽船ミシシッピ号の夜間当直の士官は、舷側についたボートからの声に驚かされた。そして舷門にいって見ると、すでに舷側の梯子を登った二人の日本人を発見した。話しかけると、乗船を許されたいという希望を表す手真似をした。かれらはここに留めて置いてもらいたいとひじょうに熱望しているらしく、乗ってきた小舟がどうなるかもかまわず、それを投げ棄てるつもりだとの意志をあらわし、海岸に帰らないという決心をはっきりと示した。かれらは教育ある人たちで、シナ官語を流暢に形美しく書き、その態度も鄭重できわめて洗練されていた(中略)二人は提督(ペリー)の政府の許可を得よとの返答を聞いて大いに困惑し、もし陸に帰れば斬首されると断言し、このまま(艦に)置いてくれと熱心に懇願した」
 松陰は佐久間象山の示唆によって、外国を「周流【しゅうしゅう】して形勢を究め」るために密航をくわだてたのだが結局ボートで陸に送り返された。
 そして、同じ日に自首して縛につき、4月15日に伝馬町に入牢、9月18日に住居蟄居の判決をうけて国もとの萩に送検された。
 以後、5年間にわたる幽閉生活を送ることになったが、この幽閉時代に叔父・文之進が中断していた松下村塾【しょうかそんじゅく】を再興し、松陰は多くの人材を育てた。
 高杉晋作、久坂玄瑞【くさかげんずい】、前原一誠、伊藤博文、品川弥二郎、桂小五郎(木戸孝允【きどたかよし】)、山県有朋ら、維新実現の原動力となっていく若者を教育したのである。


 松下村塾では上士も下士も差別されなかった。米をつき、養蚕もしながら誰もが心を開いた交わりのできる教育がなされた。また松陰自身も論理を超えた「狂夫」としての生きかたを確立して『幽囚録【ゆうしゅうろく】』(海防軍事案)を書いた。
 『幽囚録』は伏見に城を築いて幕府をそこに移すこと、京都を中心として東は伊勢・尾張、西は摂津・和泉、北は若狭・越前に防衛ラインを引き、軍事的な統一国家をつくりあげること、さらにその力を基礎にして北はカムチャッカ、南はルソンに至るまでを領有せよと論じている。明治新政府の富国強兵、植民地主義の祖型とでもいうべき案であった。
 安政5年(1858)には「今は死生も毀誉もかかわらず、いっこうに皇国君家へ一身さしあげ申し候」と述べ、安政の大獄を指揮した老中・間部詮勝【まなべあきかつ】の暗殺計画まで立てた。
 血盟の士をつのって間部詮勝を暗殺する。
 ついては武器弾薬を貸してほしいと松陰から申し入れられた長州藩の政務座役・周布【すふ】政之助は激しく反対して計画を思いとどまらせ、11月29日には松陰を玉木宅に蟄居、12月には再入牢させた。
 首をかしげたのは政之助だけではなかった。この時期江戸にあった高杉も桂も松陰の計画には反対だった。桂は江戸から萩へ帰ると時を待つべきだと松陰を説得し、門下生たちには松陰と接触するなと説いた。
 松陰は怒って「僕は忠義をするつもり、諸友は功業(世俗的な成功)をなすつもり」かといった。
 松陰はまっしぐらに「狂夫」の道を突き進んだ。松陰は止まるも引くも知らず、前へ一直線に進むことしか知らなかった。
 「藩公」「幕府」「天子」この3つこそ生死を決する理由だと松陰はいう。
 「三つの宜【よろ】しく死すべきありて死す。死すとも朽ちず。またなんぞ惜しまん」
 一種の「短絡【ショート】」だが、その短絡が発するエネルギーは門人たちに確実に伝えられた。松陰が教育者として偉大であったのはその「狂」のエネルギーを一人ひとりに植えつけたことにあったといえるだろう。
 松陰は最終的に「恐れながら天朝も幕府、わが藩も要らぬ。ただ六尺の微躯【びく】(松陰自身の肉体)が入用」といい「義卿【ぎけい】(松陰)が崛起【くっき】の人なり」といった。「草莽【そうもう】の崛起」であり名もない草のような下級志士、農民、商人までもが国のために立ち上がって協力することを夢想したのである。
 そのことは同時に幕府にとって松陰が危険人物であるということを意味した。したがって、大老・井伊直弼【いいなおすけ】もその補佐官であった国学者・長野主膳も松陰を見逃すことはできなかった。
 安政6年(1859)5月、松陰は江戸へ送られた。
 取り調べを受けた松陰は幕府の弾圧に憤り老中・間部を暗殺し、公卿・大原重徳【おおはらしげのり】を長州にむかえ、藩主に重徳を擁立させようと計画したと白状した。松陰は、これはただの計画に過ぎず刑も死刑や遠島ではなく、せいぜい他家預【たけあずかり】程度だと考えていたのである。
 ところが、判決は死刑だった。松陰は「口角泡を出【い】だす如く、実に無念の顔色なりき」(『唱義聞見録』世古恪太郎著)様子であったという。維新への精神的な種子をまいた松陰は30歳で処刑された。
 『宝島』を書いたロバート・スティーブンソンが『人と作品研究』という著書に松陰について書いている。スティーブンソンの父・トマスがアメリカに留学した松陰の門人・正木退蔵から聞いた話として、こういっている。
 「松陰は衣類もみすぼらしかった。食事とか手洗いのときは手を着物の袖でふく。頭髪は二カ月に一度結うのが関の山。口調ははげしくて毒舌だが、しぐさはやさしく、その講義はとかく生徒の頭ごしになり、彼らを呆然とさせ、ときにはそれ以上に笑わせた。学問への情熱のため寸暇を惜しんだ。書見中、眠気を催せば、夏ならば袖をまくって蚊をとまらせ、冬ならば履物をぬいで雪の上を裸足で走る」(田坂長次郎訳)
 松陰は結婚もせず純粋清潔な一途な生き方をし、そのまま死んでいった。いまなお熱烈に慕われるのは松陰が、私利私欲がまったくない教育者として生きた爽快な男らしさを感じさせるからであろう。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『歴史人物・意外な「その後」』(PHP)など多数。



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