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第47回 流通のインフラを整備する
●先端技術による鉱山開発と民政につくした大久保長安●
文/撮影 泉秀樹



佐渡鉱山の坑道の様子

 徳川家康が征夷大将軍に任じられて江戸に幕府を開いたのは関ヶ原の合戦から約3年後の慶長8年(1603)2月のことである。
 その4か月後の6月、家康は大久保長安を佐渡奉行に任じた。まだ大坂城に淀君・秀頼母子が健在だった時期だ。
 佐渡奉行は役高千石、役料千五百俵、役扶持【やくぶち】は百人扶持、江戸城では芙蓉【ふよう】の間に詰める。任務は幕府直轄地・佐渡十三万石の民政支配、年貢の収納、金銀山の支配で、幕末になると海岸警備、異国船の監視も行った。
 この通算102名にのぼる佐渡奉行のなかでも、大久保長安の存在は抜きん出て大きい。
 長安は役人50名、随行80名を従えて派手派手しく相川に新設された陣屋に入った。
 連れていた者も、あとから佐渡へ招いた者も圧倒的に甲斐(山梨県)出身者が多かった。信玄以来の鉱山開発・用水土木技術に長じた「甲州流」の技術者によるプロジェクトチームである。彼らによって慶長のはじめには十数戸しかなかった相川の集落はたちまちのうちに本格的な人口20万の鉱山都市へと変貌していった。
 山師の名前がつけられた町や木材町、石扣【いしはたき】町、味噌屋町、京町、大工町など。選鉱のために鉱石を洗う鮎川は濁って濁川【にごりがわ】と呼ばれるようになり、遊廓はさんざめき、開かれた大澗の港には船の帆が行き交った。まだ世界に人口20万以上の都市が10都市もなかった時代だから巨大都市である。
 元和元年(1615)には地子【ぢし】銀(固定資産税)百三十貫(金ニ千六百両)、運上の筋金二十一貫、運上銀六千貫(十二万両)、砂金四貫、小判三万五千両を幕府に納めた。ということは、少なくともこの4、5倍の金銀が産出されていたということになろう。
 それまで鉱石の比重を利用して鉱石を流水で選別する方法や灰吹法などの金銀精錬が行われていたが、長安は水銀で金を熔かしてアマルガムをつくり、更に熱して水銀を蒸発させて金銀を抽出したから産出量が飛躍的に増大したのである。キリシタンから先端技術を教えてもらったという。

 大久保長安は天文14年(1545)猿楽師・大蔵太夫十郎(信安)の次男として生まれた。
 最初は播磨(兵庫県)にいたが父・信安が甲斐へ流れて行って武田信玄に抱えられ、長安は猿楽師でなく武士として取り立てられて土屋昌次の与力になった。理材の才が認められて最初から蔵前衆として取り立てられて黒川金山などの鉱山開発、税務、庶務を担当した。
 武田氏が滅亡すると家康に仕え、本多正信、伊奈忠次とともに甲斐再建のために釜無川、笛吹川の堤防を整備し、金山採掘を行った。
 天正18年(1590)8月、家康が江戸に入ると翌年長安は武蔵・横山村(東京都八王子市)を中心とする所領九万石をあたえられ、ここに陣屋を築いて町をつくり、国境警備と治安維持のために同心を置いた。これが「八王子千人同心」であり、長安はここを流れる浅川がのべつ氾濫するので土手を築いてこれを防止した(石見土手)。
 そして長安は家康の六男・忠輝の附家老【つけがろう】になり、佐渡奉行兼年寄(のちの老中)となって幕府財政を安定させ、さらに伊豆・大仁金山や石見銀山(島根県太田市)を新しい技術によって再開発し、発展につくした。
 わけても石見銀山から産出される銀の量はめざましく、一時は世界に流通する銀の3分の1以上が日本産であったといわれ、世界にインフレ状態をつくり出し、これが跳ね返ってきて日本は鎖国せざるを得なくなったとさえいわれる。


 異例の昇進をとげた長安はやがて大久保忠隣の配下にあって幕府内に一大派閥を形成して本多正信一派と対立することになるが、そのころの人脈、権勢から家康直轄領150万石を実質的に支配する「天下の総代官」と呼ばれていたという。
 加えて長安の注目すべきところは幕府の商政財務の実をあげただけでなく、民政にも心を砕いたことだ。
 その最大の功績は「一里塚」である。
 一里塚は奥州の藤原清衡【きよひら】が白河から外ケ浜(青森)まで金箔を貼った卒都婆【そとば】を立てて里程標としたのが最初だといわれるが、長安はまず六尺は一間、六十間は一町、三十六町を一里と定めた。この間尺が昭和になるまで用いられてきたことはいうまでもあるまい。
 長安はこの基準を用いて五街道を整備し「一里塚」を設置した。「一里塚」は五間四方(約9メートル四方)の土を盛り榎や松、杉、桜、栗、槻【つき】などを植えた。旅人の憩いの場になっただけでなく、それは馬や駕籠などの賃銭の基準になり、公共料金の基本になった。
 さらにこれによって「定/此御朱印なくして/伝馬不可出者也【てんまをだすべからざる】のものなり/仍如件【よってくだんのごとし】」という「伝馬朱印状」と「伝馬定書」も発行されて「伝馬制」が整備され、宿駅ごとに36頭の伝馬と労力を常備させて、地子銀を免除した。
 伝馬1頭の積載量も三十貫(120キロ)以内とするなどの細則も定めた。これで幕府の公文書や物資、大名などの荷物の運搬が円滑に行われるようになり、日本全体の流通のインフラが整備され、人々ははかりしれないほど大きな恩恵を享受できることになったといえるだろう。

 しかし、慶長18年(1613)4月25日、長安は卒中のために69歳で亡くなった。
 経済や民政に立派な実績をあげたものの、長安はいつのまにか傲慢な権力者になっていたと思われる。もはや家康にも手のつけられないほど強大な力を持つ、大きな存在にのしあがっていたのかもしれない。
 先にのべたように、長安は忠輝についていたためその岳父である伊達政宗と組んで反乱を起こす手はずであったとか、禁制のキリシタン信者であったとか、あるいは鈍金の棺に入れて葬儀を行うように遺言をしたなどといわれて遺産は没収され、7人の子はことごとく死罪に処された。縁戚関係にあった大名まで連座して改易されることになり、一大疑獄事件に発展した。
 本人の死後だがすべて反対派の本多正信・正純父子による粛正であったといわれ、権力闘争の犠牲の羊【スケープゴート】にされたと考えられる。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『歴史人物・意外な「その後」』(PHP)など多数。



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