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第48回 「勇」による財政再建
●上杉鷹山の「大倹令」と殖産興業●
文/撮影 泉秀樹



上杉鷹山像

 宝暦13年(1763)2月8日、三百五十石取りの郡代所頭取兼御小姓頭・森平右衛門は米沢城(山形県米沢市)二の丸・奉行詰【ぶぎょうづめ】の間で奉行・千坂対馬【ちさかつしま】、芋川縫殿【いもかわぬい】、江戸家老・色部典膳【いろべてんぜん】、竹俣当綱【たけのまたまさつな】ら藩重臣に専横を非難され、罪をならべ立てられてその場で当網に刺殺された。
 平右衛門は九代藩主・上杉重定【しげさだ】に重用されて権勢を誇っていたのだが、この暗殺には儒医・藁科松伯【わらしなしょうはく】や莅戸善政【のぞきよしまさ】ら青年将校クラスも協力し、遂には重定を隠居させることに成功した。
 すでにこのとき米沢藩はすでに破産状態だった。
 歴代藩主が贅沢な生活を送り、重役衆は能なしで政治は平右衛門のような私腹を肥やす官僚に壟断【ろうだん】され、幕府からは苛酷な土木工事を課せられていた。
 上杉家は謙信のころは実収数百万石といわれたが、次の景勝のときは会津百二十万石、関ヶ原の合戦で家康と敵対して敗け米沢三十万に削封され、四代・綱勝が 27歳で急逝して後継者問題が起って十五万に削られた。
 にも拘らず、家中の武士は6000名以上もいて人員整理もしなかった。
 つまり、七、八十万石クラスの大名が抱える厖大な家臣団を十五万石で養わなければならず、ために家臣側も慢性的な遅配欠配、給禄の半分を強制的に天引きされる「半知借上【はんちかりあげ】」に苦しんでいた。
 さらに洪水、干害、冷害など天災による凶作に襲われ、多数の飢餓者が出て土地を捨てて他領へ逃げる逃散【ちょうさん】と負債が際限もなく増えつづけていた。
 こうした北海道夕張市さながらの貧窮のさなかに十代藩主に就任したのが上杉鷹山【ようざん】(治憲【はるなり】)である。


 鷹山は宝暦元年(1751)7月20日、日向・高鍋(宮崎県児湯郡)三万石を領する秋月種実【たねざね】の次男として江戸・麻布一本松の屋敷で生まれた。
 宝暦10年(1760)6月、先の上杉重定の養子となり、7年後の明和7年(1767)17歳になったとき初めて十代藩主として米沢入りした。
 悲惨な藩の財政再建のために平右衛門一派を粛清し、鷹山は先の竹俣当綱、莅戸善政、藁科松伯らとともに改革に取りかかった。
 木綿の着用、一汁一菜(但し歳暮のみ一汁二菜)、贈答廃止、年間行事の縮小、廃止。
 城中の奥女中を50余名から9名に。藩主が使う経費である仕切料千五百両を二百九両に削減した。いわゆる「大倹令」である。
 藁科松伯が病に倒れると竹俣当綱が牽引車となって改革を進め、莅戸善政が賄賂を根絶し、訴訟を公明正大に行い、貧民救済に力を入れた。
 善政は「焼味噌九郎兵衛」と呼ばれるほどの粗食粗衣の節約生活を貫き「米びつを莅戸【のぞき】てみれば米はなし、あすからなにを九郎兵衛【食らうべえ】かな」と揶揄【やゆ】された。
 鷹山は税を減免し、明和8年(1771)から荒地や空地を開墾して紅花、青苧【あおそ】、桑、楮【こうぞ】、漆などの作付・増産を行わせた。
 灌漑用水路を整備し、飢饉に備えた籾倉【もみぐら】をつくり、商人と交渉して無利息の借金をし、財政の収支がひと目でわかる会計をはじめて公開した。
 さらに鷹山は越後から縮師【ちぢみし】を招いて寺町蔵屋敷内に縮役場を、下長井に分場をつくって米沢絹織物に本格的に取り組んだ。そして京都からも高級品をつくる技術者を招いて綾織【あやおり】、浮織【うきおり】などの製造体制を整えた。これが文化・文政年間(1804〜1829)に飛躍的に大きな財源となってゆくのである。
 また寛政9年(1797)には相良清左衛門に命じて土人形(相良人形)をつくらせ、京人形を超える質の高い郷土人形として売らせるなどなど。


 こうした大改革と殖産興業推進派に対する守旧派が反撃に出るのは世の常である。
 十か年計であった「大倹令」が3年後に達成されようとしていた安永2年(1773)6月、奉行・千坂高敦【たかあつ】、色部照長【てるざね】、江戸家老・須田満主【みつぬし】、侍頭・長尾景明【かげあき】、清野祐秀【きよのすけひで】、芋川延親【のぶちか】、平林正在【まさあり】ら7名が改革推進派を弾劾する長文の「訴状」を提出し、鷹山に対応を要求した。
 が、鷹山はこれを断固退けてその7名を厳罰に処し、改革路線を推し進め貫き通した。
 このあと竹俣当綱が失脚したり、かわって登場した奉行・志賀祐親【すけちか】が改革に失敗したりと曲折はあったが、最後に隠居していた莅戸善政が57歳で再登用され、寛政3年(1791)から再び大改革に取り組んだ。
 十五万石の歳入の半分の七万五千石ですべての歳出を決済するという「痛み」を覚悟した過激な緊縮財政策で、33年後の文政6年(1823)に米沢藩はようやく負債を全額処理し終えた。


 善政は再登場して13年後の享和3年(1803)に死んでいたが、鷹山の峻厳にして潔癖な生き方と創造性、その熱血と先見性、冷静な計算こそがこれらの政策の実施を支えつづけた最大の力であった。
 鷹山は実践を重んじた折衷学派の師・細井平洲から贈られた「勇乎勇乎【ゆうかゆうか】勇に非【あらず】んば何を以って行わんや」という言葉を大切に守った。「勇」によって「千万人と雖【いえども】も我ゆかん」という決断をすることこそが改革に最も重要なのだ。
 自己を厳しく律した鷹山は十一代・治広に「伝国の辞」を残している。
 現代にも充分通用する言葉である。

 一.国家は先祖より子孫へ伝え候【そうろう】国家にして我私すべき物にはこれ無く候
 一.人民は国家に属したる人民にして我私すべき物にはこれ無く候
 一.人民の為め立てたる君にして君の為めに立ちたる国家人民にはこれ無く候
 右三条御遺念有【ごいねんあ】るまじく候事【そうろうごと】



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『歴史人物・意外な「その後」』(PHP)など多数。



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