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第49回 情報化社会の「予測」と現代日本
●天才・志田林三郎の電気の世界●
文/撮影 泉秀樹



志田林三郎の肖像

 パソコンにスイッチを入れてメールを送ったり、情報を得たり映像を送受信したり、電話で話をしたりファクスを送ったりすることは今の私達にとって珍しいことではない。
 21世紀に入った頃から自治体の電子化も計画されて、役所に出向いて印鑑を捺してさまざまな手続きをしていた私達はパソコンの画面で大抵のことができるようになるだろうという時代を迎えた。情報と通信が融合され、携帯端末の機能が高度化し、電子マネーで生活をまかなうこともできるようになった(本誌58号)。
 くりかえすが、これは突飛なことではなく日常の変哲もないことである。
 しかし、こうした今の私達の生活が150年以上前に生まれて幕末維新を生きた一人の男に見えていたのだ。

 志田林三郎は安政2年(1855)12月15日、肥前・佐賀の多久邑別府【たくゆうべふ】村(佐賀県多久市東多久町別府)に生まれた。
 父は私塾で生計を立てていた重蔵、母はフミ。ミスとナカ二人の姉がいた。
 重蔵は林三郎が生まれて4か月後に肺結核(赤痢?)で亡くなり、母は出稼ぎや着物の仕立てで3人の子を育てようとし、やがて饅頭屋を開いた。
 別府村周辺では石炭が採掘されていたから、鉱夫たちはこの「志田さん饅頭」をよく買った。
 幼い林三郎は母を手伝って石炭を積み出す船津の港へ行って饅頭を売り、代金や釣り銭を暗算して間違えることがなかった。
 この数字に強い「神童」を知った大庄屋・木下平九郎は6歳の林三郎に自分の家で読み書き算盤を習わせた。近くに住む漢方医・尾形惟高【これたか】も林三郎の聰明さに感心して上田町学舎という多久邑校・東原庠舎【とうげんしょうしゃ】の分校で学問を学ばせた。それだけでなく尾形は多久八千六百石の十一代邑主【ゆうしゅ】(領主)茂族【しげつぐ】に林三郎を引き会わせ、12歳で東原庠舎に入ることをゆるされた。
 元禄12年(1699)に四代邑主・茂文が創建した東原庠舎は多久聖廟【たくせいびょう】(重文)に隣接し、林三郎のほかにも飯盛挺三【ていぞう】(物理学)、高取伊好(鉱山学)、鶴田斗南(法学)、石井理一、鶴田暢(電気工学)ら世界に通用する学者を輩出しており、この学舎で林三郎は大いに刺激を受けた。
 そして、東原庠舎でも「神童」といわれた林三郎はやがて佐賀にある藩校・弘道館に進み、経倫塾という英語塾を開いていた石丸安世【やすよ】と出会って英語を身につける。さらに林三郎は明治5年(1872)佐賀藩知事の命令で上京して虎の門(東京都港区)の工部省工学寮(工部大学校=東京大学工学部の前身)で電信を学ぶことになった。
 この工学寮でも優秀さを発揮した林三郎は英国人物理学者W・E・エアトン教授に最新の電気技術を学んで明治12年(1879)に主席で卒業、ただちに政府留学生としてイギリスのグラスゴー大学に留学し、わずか1年の留学中に四つの賞を受けた。
 数学上級試験二等賞、物理上級試験一等賞、クラス投票最優秀賞と「帯磁率に関する研究」という論文で最優秀論文に選ばれて授与されたクレランド賞である。
 師のウィリアム・トムソン教授(ケルビン卿)はニュートンに次ぐ偉大な学者で物理・電気工学・機械工学に世界的な業績をあげた人物だが、林三郎を「私が出会った数ある教え子のなかでベスト・スチューデントだ」と絶賛している。
 大学での学究生活を一段落させた林三郎はグラスゴー市の中央郵便局に入ってその実務と行政機構を学んでから帰国した。


 帰国後は工部省電信局に勤務し、27歳で工部大学校の電信科教授に就任し、工部省の電信業務と農商務省の郵便事業の合併案を提出して明治18年(1885)12月には逓信省を誕生させた。その初代大臣が榎本武揚で、のちに林三郎が幹事になる電気学会を創立することになる。
 そして31歳のとき逓信省・工務局次長と東京電信学校の校長を兼任、林三郎は電話事業を官営にするために奔走した。
 しかし、明治25年(1892)1月4日、林三郎は36歳で死んでしまった。肺結核か過労死であったといわれる。

 林三郎は明治10年(1877)まだ工学寮の学生だったころ高峰譲吉(タカジヤスターゼの研究)らと西南の役のため陸軍省の依頼で熊本城周辺を監視するための繋留【けいりゅう】軽気球を制作した。実験的なものだったが2週間でこれを完成させたという。


 その翌年には日本初の工学博士となり、木の電柱に硫酸銅をしみこませて腐ることを防ぐ技術を開発し、明治16年(1883)には高崎駅と横川駅間に電話を設置、それも雑音の少ない電話機をつくった。
 翌年6月には上野と高崎間に敷設された鉄道開業式に出席した明治天皇を驚かせた。電信局が開発・設計・製作した発電機で白熱電球を点【とも】したのである。
 イギリス留学中に研究した地磁気を観測して地震を予知する「電気の強弱方向を自記する新機械」も発明した。
 また明治18年(1885)には隅田川で水面を利用した導電式無線通信の実験を行なった。マルコーニが大西洋無線電信に成功する10年も前のことで、林三郎は他にも電話交換機、直流発電気、アーク灯、液体の電気抵抗などを研究し、電気産業を指導する行政組織を整備することに力をつくした。

 林三郎は明治21年(1888)6月、第一回電気学会で講演を行った。
 「将来可能となるであろう十余のエレクトロニクス技術予測」という演説である。
 「一条の電話に依【よ】り一分時間数百語の速度を以【も】って同時に数通の音信を送受し得るの時も到【いた】るべし。電線を用いず数里の河海を隔て、自在に通信又は通話し得るの節も来るべし。音声伝送の法益【ますます】進み例えば大阪長崎は言うに及ばず上海香港等の如き数百里外の地に於て演ずる所の唱歌音楽等を坐【い】ながら東京に於て聴聞するの快感に遭遇するも応【まさ】に近きに在るべし」(原文・片仮名混じり文)
 こうした林三郎の「予測」は現代的にいえば「高速多重通信」「長距離無線」「海外放送受信」「長距離電力輸送」「電気鉄道・電気船舶・電気飛行機」「光利用通信」「電気自動記録(録音・録画)」「地電気や空間電気変動による地震予知や作物収穫予想」(『志田林三郎の生涯』信太克規)にあたるという。
 ほとんどが現代の科学技術であり、その「予測」には天才の凄みがある。日本は明治から林三郎の「予測」をそのまま歩いて現代にたどりついたのだ。
 かつて日本は西欧の科学技術の猿真似だといわれて恥じたものだが、林三郎の独創性は充分日本人の誇りだといえるだろう。
 平成5年(1993)には情報通信の発展に貢献した人にあたえられる「志田林三郎賞」が設けられ毎年6月一日の「電波の日」に表彰が行われている。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『歴史人物・意外な「その後」』(PHP)など多数。



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