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最終回 構想の実現と持続力
●伊達政宗と川村孫兵衛の夢●
文/撮影 泉秀樹



伊達政宗像

 天正19年(1591)9月、25歳の伊達政宗はそれまで根拠地としていた生誕地の米沢城(山形県米沢市)から岩手沢城(宮城県大崎市)に移った。
 秀吉の国替えの命令によるもので、奥州仕置【おうしゅうしおき】に下向していた家康が配下の榊原康政に縄張り(設計)させて改修したこの城を、政宗は岩出山城と改名し、経済政策に力を入れて城下町は大いに栄えた。
 が、岩出山城は本街道から外れ、領国経営のためには北に寄りすぎていたし規模も小さすぎたため、政宗は仙台へ移ることにした。
 関ヶ原の合戦の2か月後の慶長5年(1600)11月、政宗は家康からこの仙台に築城する許可をもらってただちに縄張りを行い3年後の慶長8年(1603)8月にはほぼ城を完成させ家中の者すべてが城下町に移った。まことに動きが素早いが、この計画はずっと以前から綿密に練られていた。
 文禄年間(1592〜96)あるいは慶長2年(1597)ともいわれるが、政宗は近江・蒲生(滋賀県)在住の浪人・川村孫兵衛重吉【しげよし】という人物を召しかかえた。
 孫兵衛は長州(山口県)阿武の生まれで土木、鉱山、冶金【やきん】、数理、測量、製鉄、植林、製塩などの技術に通じていた。キリシタンだったと伝えられるからイエズス会宣教師から尖端技術を得ていたのかもしれない。もともと毛利輝元に仕えていたが、関ヶ原の合戦で敗けて減封されたのを機に浪人していたところを政宗に招かれたともいう。
 「(政宗は)まさに田五百石を給せんとす重吉之を辞して野谷地【のやち】を請【こ】い受けて田を開く、官(政宗)之を聴く、即ち田百石を野谷地に賜ふ」(『世臣家譜』)という。
 五百石で召しかかえるという政宗に5分の1の百石でいいとこたえた孫兵衛は、家族3人とともに阿武隈川のほとりの名取郡下野郷早股【しものごうはやまた】(宮城県岩沼市玉浦地区)に住みついた。
 ここはただの荒地だったが、孫兵衛には自信があった。

 政宗は孫兵衛を召しかかえる前から阿武隈川河口の荒浜から名取川河口の閖上【ゆりあげ】まで運河を開削する構想を持っていたと思われる。政宗は国替え以前から仙台城を造営し、城下町をつくることを考えていたということだ。そして、築城や城下町建設となると、大量の木材その他の物資を必要とするが、そうした領地南部の内陸部の物資を仙台へ運び込むためには荷を北上川、阿武隈川などの河口まで下し、川舟から外洋船に積みかえて、海に出て名取川河口の閖上まで行き、再び川舟に積みかえて運ばなければならない。これでは手間がかかりすぎるし、海は風波が激しく船が難破することも珍しくなかった。


 そこで運河開削の構想が出てくるわけだが、それは孫兵衛の緻密な調査に基づいた計画であったに違いない。
 運河は海岸線沿いにある干潟や沼地、湿地などを利用しながら掘り進められ、数年で長さ15キロ、幅4間から7間(約7〜13メートル)、水深は潮の干潮によって約6尺(約2メートル)から10余尺(約3.3メートル)の「木曳堀」が完成した。
 これは阿武隈川河口・荒浜→木曳堀→名取川河口・閖上→名取川に合流する広瀬川をさかのぼって仙台までを「水の高速道路」で結びつけたということで、この木曳堀が慶長6年(1601)正月からはじまった仙台城の築城と城下町建設にどれほど役立ったかわからない。
 そして、木曳堀の完成によって孫兵衛が拝領していた百石の地はたちまち美田に変り、千石取りに成り上った。
 いいかえれば、この運河開削によって阿武隈川・白石川流域や亘理【わたり】郡などの木材をはじめとする物資輸送・流通が整えられ、阿武隈川と名取川の間にひろがる広大な名取谷地【やち】全体(三千町歩)の新田開発を促し、五間堀、志賀沢、川内沢、増田川などからあふれる低地の水を吸収する排水路として慢性的な洪水を防ぐことができるようになったということである。
 やがて荒浜は閖上とともに江戸廻米の積出港・中継地として賑わい、殻物の改所や藩蔵が各地に設けられることになった。つまり政宗と孫兵衛は治水・利水・流通のインフラ整備を行なったということで、木曳堀という種子はさらなる発展につながってゆく。

 次に政宗と孫兵衛は蛇行して濫乱ばかりしている仙北北部の中・小河川を整備して北上川の流れを付け替え、河口の石巻に港を築く計画をたてた。元和2年(1616)孫兵衛42歳のときだ。
 東の追波【おっぱ】湾(北上、河北、雄勝の3町)に向っている北上川の流れの7割を波静かな石巻湾へ流そうという計画で、工事は元和9年(1623)から4年をかけた。孫兵衛は領内の富裕な者から金を借りて工事費に充てた。そして分流地点(宮城県河南町鹿又)に石組みを設けて追波湾には3割の水が流れるようにしたのである。


 測量のために孫兵衛は樹木を切り倒したり、山々に登って地形を調べたりした。長方形の穴を点線状に掘っておいて増水したときに穴と穴の間の壁になっている部分を掘り崩して一気に水を流したりした(箱堀り)。
 こうした技術による北上川の付け替え改修によって領内の川のあちこちに51か所(江戸中期)も新しい河岸がつくられることになった。
 各地の河岸と石巻を往き来する“ひらた船”は最大積載量三百俵で、一度に荷駄150頭分の大量輸送ができる。つまり藩が余剰米を買い上げ、江戸へ運んで売り捌いたのである。江戸まで7日で行ける石巻には十三万五千俵を収納できる44棟の米蔵が立ちならび、みるみるうちに町全体が発展していった。のちに江戸廻米は年平均二十〜三十万石にのぼり、江戸市中で消費される米の3分の1を占め、米相場に大きな影響をあたえるようになった。  元禄2年(1689)石巻を訪ねた芭蕉が『おくのほそ道』に「数百の廻船入江につどい、人家地をあらそいて竃【かまど】の煙り立ちつづけたり」と書いている。
 この孫兵衛の石巻開発の功績に対して政宗は感状と新たに牡鹿郡大鈎村(石巻市門脇【かどのわき】)などに知行地をあたえた。孫兵衛は計三千余石を領する大身に出世したのだ。
 政宗は寛永13年(1636)4月24日に70歳で亡くなり、孫兵衛は12年後の慶安元年(1648)10月27日、74歳で没した。
 が、夢のようなスケールの大きい産業振興策、遠大な構想の核となる木曳堀と石巻港をつくった政宗と孫兵衛の仕事は死ななかった。その後も次々と運河が掘りつづけられた。
 塩釜と七北田川河口の蒲生を結ぶ御舟入堀、蒲生と閖上を結ぶ新堀、東名運河、北上運河。仙台湾岸沿いに阿武隈川河口と北上川河口の間の全長49キロの日本最長の運河が明治まで掘りつづけられることになった。政宗の謚【おくりな】である「貞山」をとって「貞山堀」と総称される運河である。2世紀以上もその構想を実現する持続的な意思が受け継がれたことを、現代の私たちも見習うべきだろう。



いずみ・ひでき
昭和18年静岡県生まれ。40年慶應義塾大学文学部卒業。
産経新聞社記者などを経て作家として独立、写真家としても活躍する。
48年小説『剥製博物館』で第5回新潮新人賞受賞。
著書に『東海道の城を歩く』(立風書房)『日本暗殺総覧』(KKベストセラーズ)『歴史人物・意外な「その後」』(PHP)など多数。



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