電子自治体推進を支援する情報誌「 新風」

【特集】

タイトル

経済危機とIT分野の技術革新に対応すべく、『i─Japan戦略2015』が公表されたその柱となるのが「国民電子私書箱構想」だ。電子政府で世界に遅れをとった日本には、いわば“乾坤一擲”の策といえる。
電子政府・電子自治体分野の第一人者であり、新戦略策定にも関わった須藤 修・東京大学大学院情報学環教授に、「次世代電子行政サービス」の展望を聞く。

──先頃、IT戦略本部から『i─Japan戦略2015』が公表され、いよいよ「次世代電子行政サービス」実現へ動き出すことになりますね。
須藤
 そうですね。わが国では、2001年にIT戦略本部を設置し、『e─Japan戦略』を決定して以来、今日まで電子政府・電子自治体構築に向けた各種施策を推進してきました。これによって情報通信基盤の整備は進んだものの、残念ながら利活用の点では多くの国民がその成果を実感するまでに至っていません。その要因としては、(1)利用者(国民・企業)視点での検討が不十分なまま、国・地方、各部署がバラバラに電子化を進めたこと、(2)既存の制度・慣行・組織等がネックとなり、業務改革が十分進まなかったこと──などが挙げられます。そこで、これまでの問題点を反省し、2015年には利用者視点に立ったデジタル社会を実現しようというのが、『i─Japan戦略2015』です。この新戦略において、取り組みを加速すべき重点分野の筆頭に掲げられたのが「電子政府・電子自治体」で、〈2015年までにデジタル技術による「新たな行政改革」を進め、国民利便性の飛躍的向上、行政事務の簡素効率化・標準化、行政の見える化を実現する〉との将来ビジョンが示されました。これまで電子政府・電子自治体の政策に関わってきた立場から見ても、今回の新戦略はよくまとめられていると思います。問題は、今後これをどう実現していくかですね(笑)。

立ち後れた日本の電子政府

──先生は、「日本の電子政府は先進諸国に比べて立ち後れた」と発言されていますが、海外の状況を教えてください。
須藤
 電子政府・電子自治体の構想は、いまや世界各国で活発な動きを見せています。特に進んでいるのが欧州諸国で、EU加盟国では、各国の法規に優先するEU指令に基づき電子政府が推進されています。なかでもデンマークは、電子政府の利便性という点で最もサービスの質が高く、「利用者の視点で、すべての行政サービスをワンストップで処理する」という発想は、ぜひ手本とすべきですね。このために、彼らは各省庁が保有する基幹システムのデータの標準化、データ形式の統一化を図り、バックオフィス相互間の連携を実現しました。自治体についても2012年までに連携する計画です。いうのは簡単ですが、これを実際にやるとなると非常に大変なことです。日本でも今後、国・地方が一体的に電子行政を推進するとしていますが、その調整だけで軽く2~3年はかかるでしょう。しかし、欧州各国はすでにその段階を終えたわけで、ようやくグランドデザインを示した日本との差は歴然としています。

──2010年までに「世界一便利で効率的な電子行政」を実現するとしていた日本が、それほど世界から遅れていたとはショックです。なぜ、デンマークの電子政府はそこまで進んだんですか。
須藤
 それには、人口が約550万人と少ないことに加えて、次の三つのポイントが挙げられると思います。まず、紙媒体による書類の受け取りを拒否し、電子フォーマット(電子メール、CD等)によるコミュニケーションを強制する法律を定めたこと。これにより、利用者も行政側も必然的に電子化を進めなければならないようにしたわけです。二つ目が、個人・企業に固有のIDを作り、すべての機関で同一のものを利用したこと。そして三つ目が、ワンストップサービスを実現するために、国民一人ひとりに対応する「マイページ」を開設したことです。これは個人の属性に合わせて、行政機関からプッシュ型のサービスが提供されるもので、マイページにログインすると、本人と家族に関わる行政からの連絡、あるいは医療、教育、税金、年金情報記録などの個人の社会保障情報をひとまとめで管理・閲覧できるようになっています。このマイページについては、以前、横須賀市が実験的に取り組んだことがありますが、その時には全国への普及・定着までには至りませんでした。

国民電子私書箱構想とは?

──その点では、日本も新戦略で「国民電子私書箱(仮称)」構想を打ち出しました。これについて教えてください。
須藤
 「国民電子私書箱」とは、希望する個人・企業に提供されるオンライン上の“専用口座”で、国・地方、社会保険庁などが保有する自らに関する情報を簡単に入手、閲覧・管理できる仕組みです。これにより、個人・企業は幅広い分野でのワンストップサービスが受けられるようになり、将来構想としては、健康保険組合や医療機関と結んで「電子カルテ」の閲覧や、電気・ガス会社、金融機関と連携した「決済サービス」なども盛り込んでいきたいと考えています。国民電子私書箱が普及・定着すれば利用者の利便性向上だけでなく、行政機関にとっても事務の簡素化・効率化やコスト削減が可能となるでしょう。また、その仕組みは、個人情報を一か所に集めて集中管理するというものではなく、「仮想化技術」によってそれぞれの行政機関が保有する個々のデータベースを、あたかも一つのもののように見せるものです。電源を切ればデータはすべて消え、保存もされません。実際のところ、個人情報を集中管理しようとすると国民一人当たり最低10GBぐらいの容量が必要となり、それを1億2,000万人分用意するのは困難ですし、セキュリティ面でも非常にリスクが高いといわざるをえません。そこで、仮想的に行政情報を連携させる方法を考えたもので、こうした仕組みはすでに米国国防総省などで実現されています。
──仮想化技術によるデータ連携とは、どのように行うのでしょうか。
須藤
 各機関が保有するデータベース間の連携は、疎結合(緩やかな接続)によって実現します。例えば自治体との連携であれば、庁内の基幹系システムはそのままで、その外側に疎結合のための「情報開示用サーバ」を設置し、これを「メタデータ(個々のデータそのものではなく、データの所存や作成日時、作成者等を表す情報のこと)」で連結させるという考え方です。また、そのために、メタデータを管理する「行政情報の共同利用支援センター(仮称)」を構築します。これによって、行政機関は「行政情報の共同利用支援センター」を介してほかの行政機関が保有する情報を参照できるようになり、個人・企業は複数機関への申請が一度で処理でき、手続に必要な証明書などを取得する手間も不要になるというわけです。このデータ連携の仕組みは、次世代電子行政サービスの基盤としてだけでなく、行政と民間の情報・サービスの融合や産・官・学によるコラボレーションなどでの活用も考えられ、多方面から注目されています。なお、この技術開発については、現在、「次世代電子行政サービス基盤等検討プロジェクトチーム」で検討を行っているところで、9月中には報告書を公表する予定です。

新たな行政改革の幕開け

──これまで電子行政サービスというと、証明書等のコンビニ発行などのイメージが強かったと多かったと思いますが、国民電子私書箱構想が実現すると行政サービスの様相も一変しますね。
須藤
 そうですね。市川市がコンビニエンスストアを使った証明書等の発行サービスに取り組んだのは、10年ほど前のことです。当時は非常に画期的な取り組みで、利便性拡大という点でも大きな成果をもたらしました。ただ、これは紙による処理を前提とした取り組みです。次世代電子行政サービスはこれをさらに進化させ、個人や企業が、パソコンや携帯電話を活用したWebサービス以外にも、電話・地上デジタルテレビ、KIOSK端末、役所などの総合窓口で、さまざまな行政サービスを“ワンストップ”で受けられるようにするもので、これらはフロントオフィスとバックオフィス、バックオフィス相互間の連携があって初めて可能となります。その利用イメージは、利用者が電子申請を行うと、これを受けた行政機関から、「あなたが居住している市町村の情報開示用サーバにアクセスして、本人確認を行ってもいいか」というメッセージが届き、申請者が了承すれば行政機関がGPKIやLGPKIを使って情報開示用サーバにアクセスして、申請内容に間違いがなければ受理するというものです。また、個人・企業が、もしも情報開示用サーバへアクセスされるのは嫌だというのであれば、これまで通り役所へ出向いて手続に必要な証明書等の交付を受け、それを郵送してもらえばいいわけです。その一方で、オンライン利用の場合は「時間や経済的に得をする」といったインセンティブをつけてもいいでしょうね。そうした利用者視点のワンストップサービスの実現に向け、「次世代電子行政サービス基盤等検討プロジェクトチーム」の下にワーキンググループを設置し、標準モデルとして引越手続と退職手続について検討を行っています。

ITは、所有から活用の時代へ

──次世代の電子行政を実現するまでには、データ連携技術のほかにも、さまざまな課題を解決しなければなりません。
須藤
 そうですね。法制度面の整備としては、まず「個人情報保護」の問題があります。データ連携することで利便性を上げるということと個人情報保護の問題は、まさに“車の両輪”の関係です。これについては今後、個人情報保護に関するシステム全体の運用・管理を監視し、苦情の受付や、違反が明らかな場合には差し止め請求、勧告などを行う「第三者機関」のあり方等について検討する計画です。
──それは重要な問題ですね。
須藤
 また、「認証基盤」についても、利用者視点からの見直しが必要となるでしょう。よく海外のIT企業から、「日本はなぜそんなに厳格に認証するのか」と聞かれるのですが、電子署名を利用するためにここまで技術レベルの高い大規模なインフラを整備したのは日本だけで、欧米諸国ではもう少し簡便で使いやすい方法を採用する方向にあります。日本の情報セキュリティ対策は、これまで事故を想定した事前対策を中心としてきましたが、インターネットを使う限り次々と発生する新たなリスクを防ぐことはできません。そこで、これからは「事故前提社会」として情報流出や障害による影響の軽減、あるいは事業継続性の確保などを考えていくことが必要です。また、もう一つ必要といえるのが、合理的な定義と判断に基づく、「セキュリティ対策の階層化」です。例えば、セキュリティレベルは高くても、すべての行政サービスで公的個人認証を利用しようとすると、利用者にとって使い勝手が悪いだけでなく、行政にとっても膨大なコストがかかります。しかし、簡易な方法であれば申請者にとって使い勝手がよく、行政のコスト負担も少なくて済みますよね。そのため、個人の財産や生命、医療などの情報に関わる手続については、多少手間がかかっても厳重で信頼性のある「公的個人認証(あるいはそれに準じる認証基盤)」を使い、そこまで重要ではない手続は「ID・パスワード」に、例えば、「あなたのお母さんの旧姓は?」といった簡単な謎解きのようなものを組み合わせる方法を使うなど、対策にバリエーションを持たせることが考えられます。これについては、今年2月に決定した『第二次情報セキュリティ基本計画』と、6月に公表されたその実施プログラム『セキュア・ジャパン2009』でも、現実的な対策を促進するとの方針が示されています。また、総務省でも「公的個人認証サービス普及拡大検討会」を発足し、利便性の向上や行政分野のみならず民間分野における利用促進のための具体的方策について検討を始めました。

──新戦略では、ASP/SaaS、自治体クラウド(※)などの積極的な活用についても言及しています。
須藤
 次世代電子行政サービスを、小規模団体が独自に構築するのは不可能です。そのため、ASP/SaaS、自治体クラウドなどによる情報システムの共同化が今後、急ピッチで進んでいくでしょう。重要なのは、これら情報通信技術を最大限に活用して、より効率的で柔軟なシステム整備を行うことで、システムそのものを所有することではありませんからね。なお、自治体クラウドについては、総務省が今年7月、LGWANに接続された都道府県域データセンターと、ASP/SaaS事業者のサービスを組み合わせて各種業務システム等を構築し、地方公共団体が情報システムを低廉かつ効率的に利用できる環境(自治体クラウド)の開発実証事業を実施することを明らかにしました。この実証実験の成果は、分散・連携運用体制の構築という点でも注目されますね。また、こうしたクラウド環境が普及すると、IT企業にとってはこれまでのような「メンテナンスで収益を得る」というビジネスモデルの比重は減りますが、それに代わってデータ連携やデータ分析による新たな「ITサービス」が登場してくるようになるでしょう。そうなれば、次世代電子行政サービスが日本社会へ与える効果は、行政改革や利用者の利便性向上にとどまらず、個人・企業にとっても生活や経済活動における新たな価値や文化を創造し、新たな成長と雇用を生み出す“活力”にもなると期待できます。


※クラウドコンピューティングとは、データサービスやインターネット技術などがネットワーク上にあるサーバ群「クラウド(雲)」にあり、利用者はソフトウェアの所在などを意識することなく、“どこからでも、必要な時に、必要な機能だけ”利用することができるもの。利用形態はASP/SaaSに近いが、サービス提供者は必ずしも1社ではなく相手先を意識せずに利用できる点が新しいとされている。


今後、何をすればいいのか

──次世代電子行政サービスの実現は、究極のデジタル社会を拓くための第一ステップということですね。
須藤
 国・地方の枠を超え、一体的にワンストップサービスを進める上で最も重要なのが、「強力な推進体制(司令塔機能)の整備」です。例えば、フランスでは、サルコジ大統領が電子政府によって抜本的な行政改革を推進することを表明し、財務省内に新たに「国家近代化総局」を創設して推進体制の強化を図っています。これと同じことは市町村にもいえるでしょう。次世代電子行政サービスは、これまでの「申請主義」を脱却し、利用者の視点で簡素で便利な行政サービスを提供するものです。そのためには当然、市町村もデジタル処理を前提とした業務プロセスへの移行が求められます。同時に、フロントからバックオフィスまで一気通貫で連携することが大前提ですが、ただつなぐだけでは意味がありません。いま市町村に求められているのは、業務の標準化や業務プロセスの効率化・透明性の拡大を実現していくことです。そのために、今後どのようなプロセスで業務改革を進め、どのように経営資源をマネジメントしていくのか…。原課任せではなく、情報政策部門が責任と権限をもって組織横断で取り組まなければ、この大変革を乗り切ることは困難でしょうね。
──市町村にとっても正念場ですね。
須藤
 また、情報政策部門にはPMO (プロジェクト・マネジメント・オフィス/複数あるいは大規模なプロジェクトの統括管理を行い、個々のプロジェクトを円滑かつ確実に前進させる役割)のスキルが求められようになると思います。一方、情報政策部門以外の職員も高度にITを利活用できるスキルが必要で、今後はそうした職員研修にも力を入れるべきでしょう。さらに、業務と情報システムの“全体最適化”を進めるには、トップの理解と協力が不可欠です。例えば、甲府市では、副市長がPMOの委員長として率先してプロジェクトに関わり、組織全体の業務フローを見直し、すべての情報システムのASP化を成し遂げました。加えて、次世代電子行政サービスでいろいろな組織が連携するようになると、互いの責任範囲やサービスレベルを明確にすることが必要となります。その点では、SLA(サービスレベル・アグリーメント/サービス提供者と顧客との間で交わされるサービスの内容と範囲、その品質を保証する制度)についても、真剣に取り組んでいかなければなりません。甲府市では、すべてのサービスについてSLAの評価基準を定め、行政と民間ベンダー相互の責任範囲を明確にしました。担当者は大変だったと思いますが、これからのことを考えると非常にいい経験となったはずです。
──国民電子私書箱構想の目標は2013年。時間はありませんね。
須藤
 技術面や関連する法制度面などの環境整備、あるいは予算措置など実現に向けて解決すべき課題はまだ山ほどあり、目標を達成するのは並大抵のことではありません。かなり大胆な政策立案も必要です。国民電子私書箱が本来の意味で完璧な形をなすまでには、少なくとも10年はかかるでしょう。だからこそ、それに向けた準備をすぐにでも始めなければならない…。国民主役の「デジタル安心・活力社会」の実現へ、例え、その道程は遠くても一歩ずつ前進していかなければ日本に未来はありません。